障害飛越個人で優勝した西竹一陸軍騎兵中尉と愛馬・ウラヌス=米・ロサンゼルスで1932年撮影

 パリ五輪の総合馬術(団体)で銅メダルに輝いた日本。馬術競技としては92年ぶりのメダル獲得の引き合いに出されたのが、1932年のロサンゼルス大会の馬術障害飛越で金メダルを手にした西竹一(1902~45)である。男爵家出身の陸軍騎兵将校。世界から「バロン(男爵)西」とたたえられた男は、玉砕の島で生涯を閉じた。「感無量です」と話すのは、埼玉県熊谷市在住で義理の甥に当たる松本生(すすむ)さん(88)だ。生前の西を知る最後の証言者である。【隈元浩彦】

 「天晴れ西中尉/正に天空を行く/花々し若武者の神技」。32(昭和7)年8月15日発行の「東京日日新聞」夕刊1面は、ロス大会最終日の西竹一の優勝をそう報じた。西洋社会、それも上流階級のスポーツとされた馬術競技での東洋人の快挙。明るい人柄もあって、その名は一躍世界に報じられた。

 松本さんは医師として県立寄居こども病院長などを歴任し、現在は熊谷市内の社会福祉法人の理事を務める。西の妻、武子さんと、松本さんの母親、須美子さんは姉妹で、西は義理の伯父に当たる。

 パリ五輪での日本勢の活躍から一夜明けた7月30日。新聞各紙には「『バロン西』以来快挙」(毎日新聞)などの見出しが躍った。

 「身内の名前がこうして注目されるとは言葉もありません。何しろ1世紀近く昔の話だというのにね。何とも感慨深い。母からは『西がいなければお前はいなかった』とも言われていましたから」

 西はロスからの帰国後、千葉県習志野市の騎兵連隊に転属し、千葉市亥鼻台に居を構えた。千葉医科大(現千葉大医学部)の近くで、西邸前を通学路にしていたのが当時医学生だった松本さんの父、胖(ゆたか)さん(のちに千葉大医学部長)だった。親しく交流するようになり、武子さんのところを訪れていた須美子さんを見初めて結ばれた。

 西との記憶をたどる。「かわいがってくれました。鎌倉の別荘に招いてくれたりして。西の名前を見るとね、歳月はたっているのに、表情とか肩を前に出すように歩く姿が思い出されるんですよ」

バッジ託し「戦地に行く」

 最後に会った日のことは忘れられない。44年7月だった。母に連れられて東京・世田谷の西宅を訪ねた。松本さんは8歳だった。西の長男、泰徳さん(故人)と一緒に、菓子を食べながらおしゃべりしていると、西が松本さんのところにきて、バッジのようなものを差し出して言った。「戦地に行く。俺だと思って持っていろ」。いつになく真剣な表情だった。

西竹一から託された“メダル”を手にする松本生さん=熊谷市内で

 幼心にも「ああ、死ぬ覚悟なんだ」と思った。西が向かった先は硫黄島だった。翌年3月21日、大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した。母から「西さんは死んだ」と聞かされた。「五輪でもやることをやったし、戦争でも軍人としての義務を果たしたと誇らしかった。そういう時代だったんです」

 戦後、武子さんからこんな話を聞かされた。「最初、夫の死を受け入れられなかった。1週間ほどたって(ロス五輪で金メダルをもたらした)愛馬のウラヌスが死んだという連絡があり、ああ夫は死んだのだと思えた」

 ロス五輪での快挙をたたえて、西にはロサンゼルス市から名誉市民の称号を贈られていた。だが、西はその米国との戦火で倒れた。今、パリでは「平和の祭典」をうたう五輪が開かれている。「世界を見渡せば第3次世界大戦前夜のような状況でしょう。西の時代と何が変わったのか」

 「これが……」と言って、小さな記章を見せてくれた。西から託されたバッジだった。「軍用保護馬普通鍛錬指導員優良徽章(きしょう)」と刻まれていた。西が軍馬育成の部署にいた時のものだろう。「私にとっては、西さんからもらった“メダル”なんです。どんな思いでくれたのか。そんなことを考えたりね。惜しい人でした」

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