6日に東京ドームで行われたボクシングの世界スーパーバンタム級4団体タイトルマッチで、6回TKO勝ちを収めた統一王者の井上尚弥(大橋)。驚いたのは、挑戦者ルイス・ネリ(メキシコ)から2度ダウンを奪った左フック、フィニッシュとなった右の破壊力だけではない。新たな「モンスター」の一面が見られた試合だった。

4回、ルイス・ネリ㊨を攻める井上尚弥=5月6日、東京ドームで

◆「井上尚弥も人の子なんだなと思ったよ」

 7日の朝、携帯電話が鳴った。画面を見ると人気格闘技漫画「刃牙」シリーズなどを描く漫画家の板垣恵介さんだった。  「すごい試合だったねえ。ファイティング原田の時代からボクシングを見ているけど、あんな素晴らしい試合を見せてくれるなんて本当に感謝。東京ドームで井上選手のテンションが必要以上に高かった。井上選手も人の子なんだなと思ったよ」  板垣さんは6日に井上尚弥とネリの一戦を東京ドームで観戦。食事を済ませ、寝ようと思って横になったが、脳が勝手に試合を反すうしていたという。それくらい興奮させられる試合だった。    ◇   ◇    

◆生涯初のダウン、リングサイドは「心臓が止まるかと…」

34年ぶりにボクシングの興行が開催された東京ドーム。超満員の4万3000人が駆けつけた

 確かに井上尚弥も人の子だった。これまで「モンスター」の異名通り、リング上で一切の隙をみせず、冷静に闘い、圧倒的な強さを誇ってきた。だが、入場時から明らかに気合が入りすぎている。東京ドームのチケットは完売し、超満員となる4万3000人が駆けつけた。観客で埋め尽くされた景色がよほどうれしく、高揚していたのだろう。  ゴングが鳴る。井上尚弥が放つパンチの振りが大きい。いつもより力んでいる。試合のピークがいきなりやってきた。開始1分40秒。接近戦で井上尚弥が左アッパーから右フックを放とうとした瞬間、ネリが顔面への左フック。被弾した井上尚弥が倒れた。プロ・アマを通じて初のダウンだ。  「(連勝が)止まっちゃう。こういう最後か…」  セコンドの大橋秀行会長の頭に一瞬、敗戦がよぎった。まだ体が温まっていない試合早々にパンチを食らい、リングに沈んでいった数々のボクサーを見てきたからだ。  「1ラウンドのパンチは思っている以上に効くんだよ。タイミングで倒されたのではなく、ネリは左をフルスイングしていた。尚弥は相当ダメージがあったと思う」  大橋会長だけではない。リングサイドで見ていた井上尚弥の弟・拓真も目を疑った。  「心臓が止まるんじゃないか、というくらい焦った」

◆悲鳴の中で「モンスター」だけが冷静だった

1回、ルイス・ネリからダウンを奪われた井上尚弥。冷静に8カウントを数えた

 井上尚弥がリング上を転がった。会場は悲鳴に包まれる。誰もが目の前の光景を信じられない。ドームにいる4万人超の中で唯一冷静だったのが井上尚弥だった。  非常事態に驚いたような表情を見せながら、キャンバスに片膝をつき、レフェリーが「カウント8」を数えるまでゆっくり休んだ。  生涯初のダウンでパニックになってもおかしくない。焦ってすぐに立とうとして、足元がふらついたところをレフェリーに止められる選手も多い。  大橋会長が感心した口調で言った。  「やっぱりさ、倒されたら人はすぐに立とうとするんだよ。でも尚弥は(カウント)ギリギリまで休んで、ベテランみたいだったね」  井上尚弥はその場面を振り返って、言った。  「イメージトレーニングしていたので。しっかりと8カウントまで膝をついて休む。そこの数秒が大事。そういうシーンが訪れたら、っていうのは日頃から考えるようにしていて、それがとっさに出た」  プロ27戦目、しかもそれは大舞台で起こった。スパーリングでもダウンをしたことがないのだから、練習のしようもない。ダメージもあっただろう。ダウン後でもイメージ通りに遂行する。これまで見せたことのない「モンスター」の新たな一面だった。

◆「驚きの動き、なぜできる?」かつて聞いた答えがよぎる

 その言葉を聞いて、思い出したことがある。2020年10月のジェーソン・モロニー戦。井上尚弥は相手のジャブ2発に左フックのカウンターを合わせて、ダウンを奪った。モーションの少ない素早いパンチに対して、カウンターを打つなんて…と驚き、「なぜ打てるのか」を尋ねた。  「それはですね、想定して練習しているから。それだけなんです。練習していない選手に、やれ、と言ってもできないけど、自分は反復で練習しているんで。自分だって、練習していなかったら打てないし、幅を広げようとか、いざのときのためにこれをやっておこう、としっかりやっているだけですよ」  あらゆる場面を想定し、アドレナリンが出る本番でもできるくらいまでイメージを頭に植え付けているのだ。

◆落ち着き、立て直し、つかんだ歓喜

5回、ルイス・ネリ㊨からダウンを奪う井上尚弥

 ダウンを喫した井上尚はゆっくりと立ち上がった。レフェリーが「ボックス!」と宣告し、試合は再開した。だが、まだ残り1分以上ある。ネリの突進をしっかりクリンチで食い止める。これもまた落ち着いた、卓越した動作だった。その後はディフェンスでネリのパンチをかわしてピンチを脱し、1回を終えた。  2回に左フックで井上尚がダウンを奪い返すと、一方のネリは休むことなくすぐに立ち上がった。3回からは井上尚本来の動きだ。一方的な展開になり、5回にも左フックで倒し、迎えた6回。コンパクトで強烈な右でネリの首をロープに打ちつけ、戦慄(せんりつ)のTKO勝利。倒され、倒して、最後は絶大なインパクトを残した。  「歴史に残るスリリングな試合だった」  大橋会長がそう表現するように、試合の最初から最後までドームが熱狂していた。    ◇   ◇    

◆「あんなすごい現実が…」ヒット漫画家の感嘆

 「見せ場をつくるよね。1回にダウンして、2回に奪い返すって、世界戦ではなかなかないでしょ。大場政夫とオーランド・アモレス戦を思い出したよ」  携帯から板垣さんの感嘆の声が漏れてきた。  27戦全勝。軽量級でありながら24KO。井上尚弥は想像を超える試合を何度も演じてきた。一気に2階級上げて4度倒したオマール・ナルバエス戦、70秒KOのフアンカルロス・パヤノ戦、ノニト・ドネアとの2試合、スーパーバンタム級初戦のスティーブン・フルトン戦しかり。  そして今回、ボクシングでは34年ぶりの東京ドームで、主人公の井上尚弥がヒールの敵役ネリに倒され、そこから逆転し、観客を歓喜させた。誰もが満足して帰路に就いた。  「現実があんなすごい試合なんだからさ。創作ではどうするか」  板垣さんはそうつぶやいた。  まるで漫画のような世界。それが現実のボクシングで起きている。(森合正範)

森合正範 1972年、横浜市生まれ。学生時代、東京・後楽園ホールでアルバイトに励む。スポーツ新聞社を経て、2000年、中日新聞社に入社。「東京中日スポーツ」でボクシング、ロンドン五輪を取材。「中日スポーツ」で中日ドラゴンズ、「東京新聞」でリオデジャネイロ五輪、東京五輪を担当。現在は東京新聞運動部デスク。著書に「力石徹のモデルになった男 天才空手家・山崎照朝」(東京新聞出版)、2023年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した「怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ」(講談社)。



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