少年クラブからアジアへ
そのクラブの歴史はJリーグが誕生するよりもずっと前、いまから50年ほど前に始まった少年サッカーの活動が原点となっています。
ホームタウンの東京・町田市では1970年代に地元のサッカー協会が中心となって、小学生、中学生、それぞれ15チーム以上のクラブが参加するリーグ戦が始まり、町をあげて少年サッカーの強化に取り組んできました。
こうした中、1977年に地元の小学生を集めた選抜チーム「FC町田」が誕生。
1981年には全日本少年サッカー大会で早くも初優勝を果たします。
このチームのメンバーの進学にあわせて、中学生や高校生のチームが次々と作られ、年代別の全国大会でも実績を積んでいきました。
そして1989年、現在のクラブのもととなる社会人チームが発足。
1991年の東京都の社会人4部リーグに初参戦して、1998年の社会人1部リーグの昇格にあわせて、クラブ名を「FC町田ゼルビア」に改めました。
その後、浮き沈みもありながら、カテゴリーを徐々にあげて、2018年にはJ2で4位に入りましたが、スタジアムの収容人数や練習施設が基準を満たさず、J1昇格をかけたプレーオフに参加できないという事態に見まわれました。
しかしこの年、IT大手のサイバーエージェントが経営権を取得したことで、施設の整備が急速に進み、J1昇格に必要なライセンスを獲得。
昨シーズンJ2で初優勝を遂げ、初めてJ1に昇格しました。
地域の少年サッカーとして活動が始まって50年余り。
J1初参戦の今シーズンは優勝こそならなかったものの、最終節まで優勝争いに加わって3位に食い込み、アジアチャンピオンズリーグの出場権も獲得しました。
来シーズンのさらなる飛躍に注目です。
ぶれない名将 独自戦術で
「リスクを負わないのが町田のサッカー」。
黒田剛監督は高校サッカーでの豊富な指導歴をもとに培ったこの独自の戦術をぶれることなく、貫き通しました。
青森山田高校を率い、全国高校サッカー選手権で3回の優勝に導くなど数々の栄光をもたらした黒田監督。
多くの大会が「負けたら終わり」のトーナメント制で行われる高校サッカーの世界で28年にわたって指揮をとった経験から「負けないサッカー」を掲げ、監督に就任した昨シーズンから失点のリスクを最小限に抑えることに重点を置いて、チームを作ってきました。
ただ、「リスクを負わないサッカー」には高い要求が伴います。
守りでは激しいプレスから相手のゴールになるべく近い位置でボールを奪いきることを求め続けました。
休むことなく動き続ける過酷なタスクですが練習でそれを怠れば、実績のある選手でも試合のメンバーから外すほどの徹底ぶりでチームに浸透させました。
元日本代表でワールドカップも経験したキャプテンの昌子源選手は「あと一歩、体を寄せるというところは今までのサッカー人生で一番求められている。気持ちで負けたら『一生後悔するよ』と言われている」と明かしました。
その結果、失点は「34」でリーグ最少、無失点の試合は最多で「18」と選手たちが黒田監督の求めるサッカーを体現し、指揮官は「プロのプライドがあるなかで私の指導を謙虚に受け止めて実践してくれた」と選手たちをたたえました。
一方、攻撃でもリスクを極力減らすため、手数をかけずに前線へロングボールを蹴り込んだり、ロングスローを多用したりして、パスカットなどで相手にボールを奪われる機会をいかに減らして得点できるかを追求しました。
最終節までのパスの本数はリーグで2番目に少なかったものの、ロングスローなどのセットプレーから得点の4割以上をたたきだし、総得点は「54」と、20チーム中、6番目でした。
ゼルビアの戦いぶりは「パスが少なくて、つまらない」などと批判を受けることもありましたが、攻守に独自の戦術をぶらさず、強豪クラブとも互角以上に渡り合える力を証明しました。
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