2023年の日本選手権女子400メートル個人メドレーに出場した石原愛依=東京アクアティクスセンターで2023年4月9日、和田大典撮影

 いまだかつて、日本のアスリートが誰一人成し遂げていない「二刀流」がある。

 オリンピックとパラリンピックの両大会出場。世界に目を向けても、数えるほどしかいない。

 2023年春、そんな夢への挑戦を高々と掲げた選手がいる。

 石原愛依(めい)(22)=auフィナンシャルグループ。日本選手権のプールサイドで白杖(はくじょう)をついて歩いた、弱視のスイマーだ。

 結果から言えば、日本競泳界のトップ選手でもある彼女はパリに行けなかった。五輪だけでなく、パラリンピックでも。

 4年に1度の祭典に沸くこの夏を、どんな気持ちで迎えたのか――。

 パリ・オリンピックに続き、28日にパラリンピックが開幕します。日本から出場予定の選手は176人。晴れの舞台の裏には、パリを夢見ながら、そこに届かなかった人たちがいます。敗北、転身、病――。理由はさまざまです。パリが遠かった者たちの人生を追いました。
 第1回 「脚を返されたら困る」義足人生
 第2回 〝理不尽〟に怒って拒んだ目の検査
 第3回 夢半ばで昨年秋に逝った双子の妹
 第4回 〝お金より記録〟貫いたレジェンド
 第5回 試合に敗れ障害に勝った還暦の柔道家
 第6回 「五輪もパラも」目指したスイマー

五輪のレース、目に焼き付け

 午前3時にかけた目覚ましが鳴り、眠い目をこすって起きる。

 8月4日に全種目が終わったパリ五輪・競泳のレースを、石原は全部見た。

 1人暮らしの自宅にあるテレビは20インチ程度の小型だ。でないと、狭い視野では画面全体を見られない。

 画面に映っていたのは、よく知る日本の選手を含む世界のトップスイマーたち。そこにいない自分が悔しくもあり、応援する気持ちもあった。

 でも、レースを見るのは何より「勉強のためでした」と言う。

 「ストローク数を数えたりして。パラリンピックも見ますよ。テレビでなかなかやらないけど、記録は必ずチェックします。目指し続ける世界だから」

 21年秋、日本競泳界の有望選手だった石原は、突如視野を失った。絶望の中で見つけた光が「パラへの出場」だ。

 それから1年半後、初めて国内のパラ競泳の大会に出場した。以来、日本勢で前例のない「五輪とパラリンピックのダブル出場」を目指して泳ぎ続けてきた。

本気で挑み、逃した切符

 24年5月に横浜国際プールであったジャパンパラ水泳。レース後、ゴーグルをサングラスに替えると、少しだけ笑って言った。

 「パリに行けないと決まって落ち込んだけど……でも、五輪もパラリンピックも目指すって決めたので。今は切り替えてます」

五輪とパラリンピックの「懸け橋」になりたいと語る石原愛依。「自分にしかできないことだから」と言う=東京都港区で2024年8月6日、春増翔太撮影

 その1カ月と少し前にあったパリ五輪の代表選考会で、自己ベストにも及ばず代表入りを逃していた。派遣標準タイムは軽々と切っていたパラリンピックの出場に至っては、目の診断が間に合わず、出場資格を得られなかった。

 「この3年間、本気でやってきた。悔しかったですよ……」

パラリンピックも五輪も目指す意味

 福岡・柳川高時代に世界ジュニアで表彰台にまで上った石原は、神奈川大でも1年生からエースだった。だが19歳の時、原因不明の視力低下に陥った。やがて視野は通常の半分以下になり、泳いでいてもフラッグや壁が見えなくなった。

 病名は今も分からない。

 24年3月に五輪代表を逃した後も、パラリンピックへの出場はギリギリまで探った。大学病院に行き、専門医と聞けば小さな病院でも検査を受けた。

 だが、見えないという明確な症状こそあるものの、原因の病名が分からないことが壁となった。

 パラリンピックに出るには、国際大会で障害の程度を測るクラス分け判定を受ける必要があるが、それすらかなわなかった。

 競技力のピークが10代後半から20歳ごろと言われる競泳において、22歳での出場がかなわなかった事実は重い。このまま五輪とパラリンピックの両方を見据えるのは大きな負担だ。

 だが、石原は全く諦めていない。

 「泳ぐチャンスが増えるってことだから」

 力を込めて続けたのは、自分が両方の世界で泳ぐ意味だ。

 「どっちも出るのは、自分にしかできないこと。私が目指すことで、健常とパラの選手の距離はきっと縮まるし、いつか一緒に泳ぐことが当たり前になればいいなと思う。それには、誰かが実現する必要があるんで」

4年後こそきっと

 視覚に障害が出た当初、パラの大会に出るつもりはなかった。

 「自分が出れば、いきなりトップになる。元からいる選手は嫌がるんじゃないかなって」

4年後のロサンゼルス五輪・パラリンピックに向けた思いを語る石原愛依=横浜国際プールで2024年5月、春増翔太撮影

 実際、23年3月に初めて出たパラの国内大会で、石原は200メートル個人メドレーの世界記録を6秒も上回るタイムをたたき出す。

 だが、パラの選手たちは石原を歓迎した。

 最初に声をかけたのは、同じ弱視の辻内彩野(27)。知的障害クラスでパリ大会に出場する木下あいら(18)からは「一緒に泳げてうれしかった。おかげで自己ベストが出た」と言われた。

 自分のことでもないのに、うれしかった。

 「ああ、そんなふうに自分の存在が誰かのためになるんだって」

 最近、パラ水泳も自分の居場所になったと感じる。

 「途中で見えなくなるってしんどくない?」

 そう声をかけてきたのは、同じ視覚障害スイマーの富田宇宙(35)だ。東京パラリンピックで銀銅計3個のメダルを取った富田は17歳から視力が弱くなり、今は全盲だ。

 「僕は何の病気か分かったけど、メイちゃんは見つからないのきついよね」

 見えていたものがある日、見えなくなる。同じように泳げなくなる。受け止めがたいその感覚は、同じような過去を持つ者にしか分からない。

 「宇宙さんと話して『ああ、理解し合えるんだ』って。パラの世界に来て共感できる人と出会えたのは、良かったですよね」

 だから、これからは自分が「懸け橋」になれればと願う。

 テレビで見続けたパリのプールは、会場を埋め尽くした観客の歓声と視線が独特の雰囲気だった。「やっぱり出たい」と思う。

 次のロサンゼルス大会は4年後だ。

 「両方出たら(五輪とパラリンピックの間に)ロスから日本に一度帰ってこないといけないですけどね」

 笑いながらも、ただ真剣に見据えている。

【春増翔太】

(敬称略)

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