パリ・オリンピックのフェンシング女子サーブル個人で29日に出場した江村美咲選手(25)=立飛ホールディングス=は世界ランキング1位を維持して本番を迎えた。個人は3年前の東京五輪に続いて3回戦敗退となったが、今後出場予定の団体戦に期待がかかる。
「(東京で13位という結果は)日本の女子サーブルとしては最高成績。本当は『おめでとう』と言いたかったが、燃え尽きたかのようにぼうぜんとしていた」
東京五輪で敗退した直後、報道陣の質問にうわの空の表情で答える江村選手の様子を、父宏二さん(63)は今もはっきり覚えている。娘は、自国開催の五輪で結果を残すべく自らを追い込み続けていた。早々に敗れる予想外の結末に相当なショックを受けていると感じた。
宏二さんは1988年のソウル五輪にフェンシング・フルーレで出場したオリンピアンで、2008年北京五輪では日本代表監督を務めた。江村選手も宏二さんが大分県日田市で開いていたクラブで小学3年生から競技を始めた。宏二さんは当初から厳しい指導をせず、本人の自主性に任せる姿勢を取った。それでも江村選手は早くから頭角を現し、高校生から寄宿制で有望選手を育てる日本オリンピック委員会(JOC)のエリートアカデミーに在籍。フェンシング一色の生活だった。
宏二さんも選手時代は「正月でも家に戻らず、ずっと練習」というほど自分を追い込むタイプ。それだけに、東京五輪の娘の悔しさは理解でき、かけるべき言葉も分からなかったという。
「これ以上何をすればよいのか」。その後も厳しいトレーニングを続けたが行き詰まり、22年春に江村選手は2週間ほど休養した。ファッションなど自分の好きなことに没頭し、気分を変えるため髪を金色に染めた。この時期を境に、休みをしっかり取って練習するスタイルに変えた。
その直後の22年7月、カイロで開かれた世界選手権で初優勝。23年2月に世界ランク1位に躍り出た。新たなスタイルで結果を出せたことが自信になり、同年も連覇。江村選手は、安定的に力を発揮できるようになった理由として、東京五輪後にコーチに就いたフランス出身、ジェローム・グースさんが説く「試合を楽しむ余裕」ができたことを挙げる。
「やるべきことをやったと思えれば、休みもしっかり取れる。その中で精神的な余裕も生まれたはず」。自ら模索したやり方でトンネルを抜け出した娘の成長に、宏二さんは「尊敬できる選手になった」と目を細める。
パリ五輪の開会式で、江村選手は日本選手団の旗手も務めた。宏二さんは江村選手の招待を受けて個人戦を現地で観戦。「重圧をコントロールし、いかに試合に集中できるかが大事」と話す宏二さんは、この後も、娘の自主性を重んじてそっと見守るつもりだ。【神山恵】
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