三机防空監視哨の遺構で2018年に見つかった茶わん。大人用とみられる=愛媛県伊方町で2019年6月6日、松倉展人撮影
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 四国最西端・佐田岬半島にある戦争遺構「三机防空監視哨(みつくえぼうくうかんししょう)」(愛媛県伊方町三机)から見つかった「幻の東京五輪茶わん」が、パリ五輪開幕に合わせて26日から同町の佐田岬半島ミュージアムで初公開される。

 茶わんは、五輪マークと桜の花が描かれ、花びらには「日の丸」のような図柄が入っている。日中戦争の泥沼化で日本が開催を返上した1940(昭和15)年の東京五輪にあやかって生産されたとみられる。口径10・7センチ、高さ5・9センチで、半分に割れていた。

 発見したのは、佐田岬半島の自然や文化などを掘り起こし、調査などを行うグループ「佐田岬みつけ隊」事務局担当で同ミュージアム館長兼主任学芸員の高嶋賢二さん(51)と、隊員で郷土史研究会「伊予史談会」常任委員の多田仁(じん)さん(57)。2018年、同町の遠見山(標高130メートル)の山頂付近にある三机監視哨の遺構調査の際、多くの陶磁器類、ガラス製品とともに採集した。

 防空監視哨は日中戦争が始まった1937(昭和12)年の防空法で制定された監視施設で、警察の管理下にあった。「愛媛県警察史」(県警本部刊)によると、愛媛県内では39年7月の時点で松山、八幡浜、宇和島の各市に監視隊本部があり、25カ所に監視哨が置かれた。

三机防空監視哨の遺構を調査する多田仁さん(左)=佐田岬半島ミュージアム提供
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 戦時中、佐田岬半島だけでも3カ所の防空監視哨があった。当時の国民学校、青年学校の生徒、卒業生らが動員され、食器や食料を持ち込んで24時間態勢の空襲監視を終戦まで続けた。近年に「みつけ隊」などが探査したところ、内径約3メートルの円筒状の壕(ごう)に入って爆音や機数を聞き分ける「聴音壕」の遺構が確認されたほか、炊事に使ったかまど跡もあった。多田さんによると、食器類も多く見つかったことから、物資が乏しい中でも防空監視哨員への待遇が整っていたことがわかるという。

 茶わんは、同ミュージアムが企画したミニ展示「あの日のオリンピック」でお披露目される。1964年、2021年の東京五輪に関する館蔵資料や伊方町民から寄せられた思い出の品も展示予定だ。「幻の東京五輪茶わん」の発見については「伊方町町見(まちみ)郷土館研究紀要」などで発表してきたが、展示は初めて。高嶋さんは「五輪の情報が佐田岬半島の人々にどのように届き、どう受け止められていたかをたどる上で興味深い資料だ」と話す。「戦争を振り返りながら、平和の尊さを感じる時期にふさわしい展示となる」と位置づけている。

 多田さんはこれまでの調査で、愛媛県内のほとんどの防空監視哨遺構を訪れた。このうち、八幡浜市の監視哨跡では米軍機の機銃掃射後に残った薬莢(やっきょう)に監視哨員らが刻んだとみられる「昭和二十年七月二十四日」という戦争末期の日付や、監視哨員6人の名前なども確認した。「監視哨の遺構や証言によって浮かぶ事実は今なお大きい」と話している。

 展示は9月1日まで。問い合わせは同ミュージアム(0894・21・3400)。【松倉展人】

1940年「幻の東京五輪」

 当時の東京市がアジア初の五輪開催都市として立候補。1936(昭和11)年7月の国際オリンピック委員会(IOC)総会でヘルシンキ(フィンランド)を9票差で破った。しかし翌37年からの日中戦争の拡大、長期化の下で日本は38年7月に開催を返上した。代替開催地となったヘルシンキも第二次大戦により開催を断念し、夏季五輪は48年ロンドン大会から再開した。

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