(第60回全国高校野球選手権記念大会 2回戦 南陽工0―1天理)
1978年8月15日、終戦記念日にあった甲子園の第2試合。山口県立南陽工を率いた坂本昌穂(まさほ)さん(79)は、マウンドのエース津田恒実(3年)が捕手のサインに珍しく首を振るのを見た。
強豪・天理(奈良)との2回戦は、中盤までゼロ行進。津田は毎回走者を背負いながらも、要所を締めて無失点にしのいでいた。
首を振ったのは五回1死走者無しの場面。右打席に8番打者を迎え、ストライクを取った後の2球目だ。捕手が要求した外角の直球を拒み、自らカーブを選んだのだ。
右翼から左翼へ甲子園特有の浜風が吹いていた。抜け気味に真ん中高めへ入った球を左翼ラッキーゾーンへと運ばれた。
津田はぼうぜんと立ち尽くし、三塁側の応援席は絶叫の後、静まりかえった。公式戦で初めて浴びた本塁打が決勝点となり、敗退。8強入りしたセンバツに続く2度目の聖地を後にした。
大会屈指の本格派右腕が下位の打者になぜカーブを投げたのか。
「炎天下の試合はきつい。体力も消耗する。直球を投げたが走りが悪く、楽をしたいと思ったのかもしれない。まさかカーブは狙わんだろうとフワッと投げたら、あまり曲がらなかった」。坂本さんはあの場面を振り返って言う。
津田は協和発酵(山口県防府市)を経てドラフト1位で広島東洋カープに入団。駆け引きをせず、むき出しの闘志で直球勝負を挑む姿で「炎のストッパー」と呼ばれた。甲子園で味わった「1球の怖さ」を忘れまいと、「弱気は最大の敵」と書き込んだボールを肌身離さず持ち歩いた。
新南陽市(現・山口県周南市)の山間部で育った津田は、坂本さんが中学時代から注目していた逸材だった。だが、その剛腕と裏腹に「ガラスの心臓」を抱えていた。
「照れ屋で気が弱かった。中学時代は勝てませんでしたね」。中高校の2年先輩で、捕手として津田の球を受けた経験のある有吉富男さん(65)は語る。
躍動感あるフォームから投げ込む速球は威力十分。だが、走者を背負うと制球が乱れ、「置きにいく球」を痛打された。死球を恐れ、内角を突くのも苦手だった。
1年の秋。エースに抜擢(ばってき)された。それでも、攻めの投球ができなかった。「なんとか度胸をつけさせたい」。坂本さんは考え、「秘薬」と称して小麦粉を飲ませたり、ミーティングで好きな歌を大声で歌わせたりした。だが、効き目はなかった。
飛躍のきっかけをつかんだのは2年の夏。山口大会の1回戦で熊毛北から11三振を奪って完全試合を達成した。グラウンドで試合を見守った有吉さんは「あの日以来、ガラッと変わった。自信を持って、強気のピッチングをするようになった」と振り返る。
その夏は16強に終わったが、秋の県大会で初優勝した。センバツを懸けた中国大会でも準優勝し、春夏通じて初の甲子園切符をたぐり寄せた。
守護神として一時代を築き、ファンに愛された津田は93年、脳腫瘍(しゅよう)のため世を去った。享年32。告別式で弔辞を読んだ坂本さんは涙ながらに語りかけた。「第2の君を目指して頑張っている球児たちを見守ってほしい」と。
あれから30年が過ぎた今も、はにかんだ津田の笑顔が坂本さんの目によみがえる。
甲子園でマスコミにさわがれても浮かれず、ベンチ入りできない仲間への励ましを忘れなかった。卒業後、プロへの誘いを断り、いったんは地元企業に就職したのも、農繁期に実家の農業を手伝いたかったからだ。鬼の形相でプロのマウンドを守り抜く姿とは対照的に、オフシーズンに帰省した彼の素顔は高校生のままだった。
2012年、津田の野球殿堂入りを機に、完全試合を達成した周南市野球場は「津田恒実メモリアルスタジアム」と愛称が付けられた。カープ時代のユニホームや、甲子園の記念ボールなどが飾られた正面玄関から奥へ進むと、壁に記された大きな文字が目に飛び込んでくる。
弱気は最大の敵
「人間は努力すれば変われることを津田は私たちに教えてくれました。彼の肉体は若くして滅びたけれど、魂は今も、生きている」と坂本さん。
あの日、津田が輝きを放ったスタジアムで、球児たちの夏がまた始まる。(三沢敦)
◇1978年の主な出来事
【国際】
日中平和友好条約が結ばれる
イスラエルとエジプトが米キャンプデービッドで和平合意
【国内】
人気グループ「キャンディーズ」が解散
成田空港が開港
【高校野球】
〈春〉浜松商(静岡)が初優勝
〈夏〉PL学園(大阪)が初優勝
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