県内の各市町村を回る「わがまちリンク41」
5月は、本島北部の離島・伊江村の魅力をお届け!第1段は「伊江島のゆり祭り」です。

今井憲和記者
「ゆり祭りにやってきました。鯉のぼりがなびいている奥に見える海の青、そしてテッポウユリの白のコントラストが見事です!」

本島北部の本部港から、フェリーで30分の伊江島で最も盛り上がるイベントの1つが、今年で27回目を迎えるゆり祭り。咲き誇る100万輪のゆりを見ようと、毎年3万人もの人が訪れます。

那覇市から・家族
「こっちに入って来て凄い香りが良かったのでとてもいいです」
与那原町から・女性
「リピーターです。透明感があってめっちゃきれいだと思います」
名護からの少年
「大きさが自分の顔くらいでビックリした。お気に入りはナイトライダーっていう黒みがかった茶色のゆり」


ゆりの球根の生産などを担うのは、知念洋輝さん。父の会社を継ぎ、会場の管理も担っています。

新緑園 知念洋輝社長
「初日を迎えると、「今年も始まったな」と。お客さんもいっぱい来てくれて」

伊江島でゆりの球根栽培が始まったのは1980年代。サトウキビ、葉タバコに次ぐ特産品を生み出そうとスタートし、当時はオランダにも出荷されていました。好調だった球根栽培に転機が訪れたのは1990年代半ば―。

ゆり祭り立ち上げに携わった宮里徳成さん
「円高になってゆり球根を輸出できなくて。採算があわないものですから。これだけ年数をかけて、作った球根を捨てるのは忍びないと。役場で全て買い取ろうと。ゆり農家に球根を植えてもらった」

「農家救済を懸けて輸出ビジネスから観光へ」。起死回生の一手として始まったゆり祭り。そこで植え付けや管理など、責任者を任されたのが、本島の農業試験場などでゆり栽培を学んだ洋輝さんの父、正光さんでした。

新緑園 知念洋輝社長
「試験栽培用の畑があって、そこでいろいろやったりだとか。もっといい品種がないかとか。試してましたね」

ゆり祭り立ち上げに携わった宮里徳成さん
「雨降りは正光さんと2人でずっと公園に行って。土手を作ってゆりを守る。流されないように。(雨が流れる)道筋を何本も作ったり」

風光明媚なロケーションも相まって、ゆり祭りは好評を博します。以降は、ゆりを間近で楽しめるよう畑に入れるスタイルにしたり、海風に強く輪数も多い品種を取り入れたりと工夫を重ねました。

那覇市から・家族
「白一色かなと思ったら。カラフルでいいなと思いました」

オランダやチリなどが原産のものなど、100種類以上の品種を楽しめるようにして、祭りを大きくしてきました。

新緑園 知念洋輝社長
「祭り期間中は、親父に連れてきてもらっていた。親父とたくさんの関係者の方たちとで、ひとつの祭りを作り上げているような。その時は親父の仕事を継ぎたいというのは全くなかったですけど、そういうのはいいなぁと思いました」

しかし2015年。ゆり祭り用に球根を植え終え、開催を待ちわびるなか、正光さんは病気で入院、1か月ほどで帰らぬ人となりました。

新緑園 知念洋輝社長
(Q:継ぐことに迷いはなかった?)
「迷いというか、できるのかなという不安はありました。村の一番の祭りなので」

引継ぎ期間のない世代交代。洋輝さんの背中を押したのは、父・正光さんが40年もの間、毎日つけていた日記でした。

新緑園 知念洋輝社長
「ゆりって定期的に管理するものなので。防除もそうですし。参考に。遺言じゃないですけど“分からなくなったらこのノートを見たらいいよ”といっていた。これに全部書いてあるから」

日記を道しるべにして、ゆりを守ってきた知念さん。父から栽培を学んでいた島の人たちを会社に引き込み祭りを繋いできました。

新緑園 知念洋輝社長
「島の方も結構毎年毎年来てくれる方も沢山いて。やっぱいいな。(親父は)こう思っていたんだなと感じましたね」

伊江島を訪ねると、地元の産業を盛り上げようと奮起した創始者と、その思いを繋いできた人たちによって発展を遂げてきたゆり祭りがありました。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。