世界最大のスポーツの祭典、パリ・オリンピックが7月26日に、パリ・パラリンピックが8月28日に開幕します。視覚障害のある木村敬一選手(33)は東京パラで金メダルを獲得。パリ大会でも活躍が期待されています。木村選手を後押ししてきた父の思いを2回にわたって紹介します。
◇
「金メダルを取ったのを見届けた時、まずはホッとしました。喜ぶ敬一の顔を見て、『ああ、しんどかったんやろなあ』って」
パリ・パラ大会で競泳男子に出場が決まっている木村選手。4度目のパラリンピックとなった2021年の東京パラ男子100メートルバタフライ(視覚障害S11)で悲願の金メダルを獲得した木村選手を、滋賀県栗東市内の自宅からテレビ越しに応援した父稔さん(65)は、その時の心境をそう振り返る。「何事もやってみなければわからない」と挑戦を後押しし、応援し続けた息子の晴れ姿に、感無量だった。
「どうするのが正しかったのか、今もわからない」。稔さんが告白する。木村選手が1歳を過ぎた頃、増殖性硝子体網膜症と診断され、医師から「この子はいずれ、視力を失います」と伝えられた。一日でも長く目が見える日を与えたいとの思いで、母正美さん(62)とともに手術をする決断を下した。しかし、計7回の手術で視力は回復せず、木村選手は2歳で完全に光を失った。稔さんは「何もしなければ、いずれ見えなくなるにしても、小学生ごろまでは見えていたかもしれないと今も考えてしまう」と語る。
しかし、その思いは胸にしまい、稔さんは木村選手をさまざまなところに連れ出した。アルバムには自転車やスキー、キャンプなどを楽しむ幼い木村選手の笑顔があふれている。「目が見えない以外は普通の子供と変わらない」。稔さんはそう思い続けてきた。
「とにかく体を動かすことが好きな子供だった」という息子に目を細めていたが、転倒するなどの不安がないわけではなかった。考えたのが水泳だった。「プールの中なら目が見えなくても、そこから外に出てしまうことも転ぶこともない」。だからこそ「思う存分、体を自由に動かせる」。小学4年から彦根市内のスイミングスクールに通わせた。木村選手は「水を得た魚」のように躍動した。小学6年で記録会に出場した木村選手の写真は記録証を手にして満面の笑みを浮かべている。その喜びが19年後の金メダルの笑顔につながっていった。
木村選手は中学から東京の筑波大付属特別支援学校に進学する。親元を離れる決断を後押ししたのは稔さんだった。「滋賀の盲学校は同級生がおらず、学校行事も小学生から高校生まで一緒にやる。それが悪いわけではないが、同年代の子供と接して社会性を身に付けることも必要」と送り出した。
中学で水泳部に入り、競技として本格的に取り組み始めた木村選手は、めきめきと実力を伸ばした。中学3年だった05年8月、米国で開催された国際視覚障害者スポーツ協会世界ユース選手権大会の日本選手団最年少選手として出場した。「その時、初めて新聞に大きく取り上げられたんです」と見せてくれたのは、「世界に挑む全盲14歳」との見出しが躍る同年7月25日付毎日新聞夕刊だった。木村選手は、50メートル自由形を自己ベストを更新する31秒57のタイムで優勝。更に100メートル自由形で銀、100メートル平泳ぎでも銅メダルを獲得する活躍を見せた。帰国後、木村選手は「(3年後の)北京パラリンピックなど、もっと大きな大会を目指したい」と抱負を語った。「パラリンピックで金メダル」という夢に向かう長く険しい道がスタートした。【礒野健一】
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。