八回途中まで力投した有田工の石永投手=阪神甲子園球場で2024年8月7日、矢頭智剛撮影

高校野球・夏の甲子園1回戦(7日)

○滋賀学園10―6有田工(佐賀)●

 甲子園の開幕戦となった滋賀学園戦で、同校の強力打線に苦しい展開が続いたが、ピンチを迎える度にズボンのポケットに入れていたお守りをギュッと握って力を貸してもらった。

 1年生だった2022年秋からベンチ入りしたが、精神面に課題があった。23年夏の佐賀大会3回戦の唐津西戦では四球を続けて弱気になって失点を許し、22年夏の優勝校ながら八回コールド負け。練習は決まったメニューをやらず授業でも提出物を怠るなどして何度も注意を受けた。

 23年秋の佐賀大会は背番号20でベンチ入りしたが、登板は九州大会出場決定後の決勝の2回のみ。24年春の佐賀大会前には梅崎信司監督から「信用できない人は試合には出せない。二度と使わない」と厳しい言葉をかけられ、ベンチ外だった。グラウンドで躍動する仲間たちをスタンドから応援するうちに悔しさが募り、「監督が厳しく言うのは自分を必要としているから。頑張ろう」と憧れの甲子園出場のため努力することを誓った。

 「自分に甘えない」。24年夏の佐賀大会を前にした6月、練習場のベンチに置かれたホワイトボードに目標をこう記した。苦手な走り込みとも必死に向き合い、練習試合で勝利を重ねるうちに自信が膨らんできた。梅崎監督が驚くほどの成長を見せ、夏の佐賀大会では背番号「1」を勝ち取った。

 7月12日の県大会初戦は17年夏の甲子園出場校、早稲田佐賀だった。試合前のミーティングで梅崎監督から「やきものの神様」として地元の人々に親しまれる陶山神社(有田町)のお守りを託された。「俺の魂を込めて、お前に預ける」。難敵だった早稲田佐賀戦に先発すると、先制を許しながらも延長十回タイブレークで逆転勝ち。勢いに乗って、佐賀大会5試合のうち4試合で34回を投げ、防御率は1・06。梅崎監督が期待する以上の活躍だった。

 この日も佐賀大会決勝後からの肘の痛みがあったが、「甲子園のマウンドは誰にも譲りたくない」と登板。しかし、初めての甲子園は大観衆や相手の声援に緊張し、一回は球が高めに浮き3失点。捕手の畑元大雅(2年)に「せっかくの機会を楽しんで、笑顔でいこう」と声をかけられ、二回から平常心を取り戻したが、八回には自らの失策で満塁のピンチを招いて降板。継投した田中来空(1年)にお守りを託し、右翼から試合を見守った。

 目標だった初戦突破を逃し、試合終了後は膝から崩れ落ち、大粒の涙を流した。そんな主戦に対して、梅崎監督は「よくここまで連れてきてくれた。ありがとうと言いたい」とねぎらった。【井土映美】

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