快進撃を続ける日本の剣士たちが、また新たな歴史を作った。パリ・オリンピック第10日の4日に行われたフェンシング男子フルーレ団体の決勝。日本がイタリアを降して、この種目で日本初の金メダルを手にした。
最終第9試合のアンカーを務めたのは最年少の飯村一輝選手(20)=慶応大=だった。決勝開始の1時間前にコーチ陣から突如言い渡された大役に「血の気が引いた」という。だが、世界ランキング1位だったこともあるトンマーゾ・マリニ選手を相手にひるまない。
「今を楽しもうと。1点1点を目標に試合に臨んでいた」
攻め込む相手の剣を持ち味のクレバーなフェンシングで冷静にさばき、最後は胸をひと突き。「決まった瞬間は、夢なのか現実なのかわからなくなっちゃった」と初々しく笑った。
フェンシングの日本代表は2008年北京五輪以降、個人と団体を合わせれば16年リオデジャネイロ五輪以外はメダルを獲得してきた。他の3選手に比べて若い飯村選手にすれば、日本はメダル争いが当たり前という認識だ。そのため元々、強豪相手に物おじすることはなく、コーチ陣も「プレッシャーへの強さ」をアンカー指名の決め手に挙げた。
一方、松山恭助選手(27)=JTB=や敷根崇裕選手(26)=ネクサス、決勝で敷根選手と交代して出場し勝利に貢献した永野雄大選手(25)=ネクサス=は違う。いずれも小学生だった08年北京五輪で太田雄貴さん(38)が日本フェンシング界初となる銀メダルを獲得するのを目にし、日本選手でも五輪でメダルを狙えるという意識が芽生え始めた世代だ。
太田さんは12年ロンドン五輪団体銀メダルにも貢献。太田さんを育てた強豪国ウクライナ出身のオレグ・マツェイチュク氏が21年まで長期的に指導し、技術レベルも引き上げた。太田さんが16年に引退した後に「後継者」として男子フルーレを引っ張り続けた松山選手は「絶対に(銀メダルを)超えるというのは揺るがなかった」と喜んだ。
歓喜をスタンドで見届けた太田さんは「きょうのプレーを見てフェンシングを始める子は金メダルがベースになる。柔道のように全種目でメダルを狙える状態を作っていくことができるのでは」と更なる発展を期待した。また「次の世代にバトンタッチしているような状況で彼らが力強く、たくましく羽ばたいていってくれた。4年後、8年後も楽しみですね」と自らのバトンを継いだ後輩たちをたたえた。
「自分たちは金メダルを取ったが、太田さんの成し遂げたことが色あせることはない。自分が北京の太田さんを見たように、いろいろな世代の子が、夢ではなく目標に変わってほしい」と力強く語った松山選手。先駆者から後継者へ。思いは、次世代へと引き継がれた。【パリ倉沢仁志】
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