ノーシードから強豪校を次々と破り、1985年の野球部創部以来初めての甲子園出場にあと一歩まで近づいた。その原動力となったのは、決勝まで7試合のうち6試合に先発登板した袴田行紀投手(3年)だ。
準決勝の静岡戦では、1点のリードを許したが、打者のタイミングをそらす投球術を駆使して追加点を許さなかった。チームは九回の土壇場で逆転し、好投に応えた。
決勝では四回に走者一掃の右中間三塁打を打たれ、3点のリードを奪われた。「ねらわれていたのをうまく読み取れなかった」と悔やむ。逆転を信じて投げたが、準決勝の再現はならなかった。
3月、打撃練習時のバットの振動で左手を骨折した。右投げの投球はできたものの、万全の状態になったのは大会1カ月前だった。
不安を振り払ったのは浜松商、掛川西を甲子園に導いてきた名将、上村敏正監督の存在だ。「精神面、技術面で声をかけてもらい、安心感をもらった」という。
「もう一度投げさせてほしい」。この日、七回途中に高部陸投手(1年)にマウンドを譲って一塁の守りについたが、監督に訴え、九回に再登板した。「反撃の流れをつくろうと思った」。最後まであきらめなかった。
監督の「頭とハートで勝つ野球」を体現した大会だった。だが、悲願の甲子園にはわずかに届かなかった。「この経験を後輩たちに伝えたい」と袴田投手。高部投手も「思いを引き継いで甲子園に行きたい」と言う。悔しさと経験を糧に、聖隷クリストファーの挑戦は続く。(大海英史)
聖隷クリストファー・井上侑主将 悔しい。苦しい場面でも自分たちの野球をしようと心がけたが、焦りが出たのかもしれない。相手が一枚上だった。みんなの支えでここまで来られ感謝しているし、誇りに思う。静岡で最も長く野球ができて幸せだった。掛川西には、どこまでも勝ち進んでほしい。
聖隷クリストファー・上村敏正監督 大きな差はなかったと思うが、向こうに運があった。その運を呼びこんであげられなかったのは僕の責任。四回に3点を取られて点差が離れてからは、こちらがやりたい野球を向こうにさせてしまった。(選手たちは)ノーシードからよく頑張った。勝たせてあげられなかったのは申し訳ない。
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