ろう野球日本代表候補の合宿で対戦相手を務めた松山フェニックス(左)=松山市の坊っちゃんスタジアムで2021年5月22日(同市提供)

 社会人野球を通じて地域を盛り上げた自治体を表彰する「地域の元気 総務大臣賞」に松山市が選ばれた。四国初選出となった松山市は野球を愛した明治の俳人・正岡子規(1867~1902年)の出身地で、高校野球でも古豪・松山商や甲子園初出場初優勝の済美などで知られる「野球王国」だ。企業チームの流れをくむ市民球団を2000年の発足時から支え続けるなど、市民と共に「野球熱」をともし続ける。

 都市対抗野球でも1959年に優勝した名門の丸善石油(81年に解散)が有名だ。その後、愛媛県唯一となった企業チーム「NTT四国」が99年に廃部。「愛媛から社会人野球の灯を消すな」を合言葉に00年に誕生したクラブチームが「松山フェニックス」。松山市は創設以来20年以上にわたってユニホームスポンサーとして年間100万円を支援している。

松山市立幼稚園の園児に野球入門のティーボール教室を開いた松山フェニックス=松山市で2023年11月5日(松山フェニックス提供)

 松山フェニックス創設の発起人の一人で、監督、部長を務めた千原宏之(ひろし)アドバイザー(64)は「チームは松山市の広告塔。勝つことが市のPRにつながる」と力を込める。野球を続けたい選手のUターンの受け皿となる他、野球教室で園児から中学生まで指導するなど、愛媛の野球人口の裾野を広げている。

 「創設時に資金繰りに奔走した際、直談判した中村時広市長(現知事)がチームの顧問を快諾してくれたお陰で今がある」と感謝の念は尽きない。松山市と二人三脚で歩み創部15年目の14年、悲願の都市対抗野球大会に初出場した。監督として初戦に臨んだ千原氏は、試合前の野志克仁市長の始球式、大型スクリーンに流れた松山市のPR映像が今も目に焼き付いている。「『市民球団』として注目を集めた。大会がきっかけで関東の愛媛県人が応援で集い、交流することにつながった。初勝利も果たして野球熱がうなぎ登りになった」と振り返る。

ろう野球日本代表候補合宿を誘致

 市スポーティングシティ推進課の丹生谷泰生(にゅうのや・ひろたか)課長(56)も当時、スタンドから大声援を送ろうと、正岡子規の生きた明治時代のユニホームを応援団の衣装にして盛り上げた。「チームと『あの場所に再び』との思いは強い」

ろう野球日本代表候補の合宿で対戦相手を務めた松山フェニックス(左)との集合写真=松山市の坊っちゃんスタジアムで2021年5月22日(同市提供)

 丹生谷課長は「チームと共生社会の実現にも尽力している」と語る。ナイター設備のある市の「坊っちゃんスタジアム」などを生かして21年、ろう野球日本代表候補合宿を誘致。松山フェニックスが対戦相手を務めて親睦を深めた。同市で秋季キャンプを実施するプロ野球・東京ヤクルトスワローズともほぼ毎年、無料観覧試合で対戦相手となり、市民の関心を高めている。

 同スタジアムでは地方球場としては最多となる計3回のオールスターゲームを開催。野球熱を盛り上げる原動力となり、丹生谷課長は「今後も全国または世界規模の野球大会の誘致を目指して松山・愛媛を活気づけたい」と意気込む。

 受賞が決まり、野志市長は「松山フェニックスをはじめ、関係者や地域の皆様の応援があってこその受賞で心から感謝している。これからもチームと松山を元気にしていきたい」とコメントした。【鶴見泰寿】

 選考委員は次の通り。(敬称略、肩書は6月の最終選考時)

 増田寛也(日本郵政取締役兼代表執行役社長、元総務相)▽宇津木妙子(日本ソフトボール協会副会長)▽西中隆(総務省地域政策課長)▽谷田部和彦(日本野球連盟専務理事)▽砂間裕之(毎日新聞社取締役常務執行役員)

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