高校野球関連の取材って、うれしいです。でも、甲子園には苦い思い出しかない。

 PL学園高(大阪)の2年生だった2000年夏、4番で遊撃手として第82回全国高校野球選手権大会に出場しました。全国制覇した智弁和歌山と3回戦で対戦しましたが、7―11で敗戦。自分は3度の得点機で打ち損じて力を発揮できず、迷惑をかけてしまった。悔しい思いが強く残っています。

 PLの4番は、清原和博さんら歴代の強打者が座った打順。2年生で打たせてもらい、はじめは重圧がすごかったです。

 結果を一番出したいときに出せなかったことで、その後の取り組み方が変わりました。野球だけでなく、人生において結果を出さないといけないときにどうするか。後悔しないよう、しっかり準備して臨むようになりました。これで結果が出なかったら、実力不足だと思えるぐらいやってきました。

 甲子園にいきたいなら地元京都の高校、プロ野球選手になりたいなら甲子園で春夏通算7度優勝のPL――。

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 そんな目標を持って、進学先を決めました。苦しいことはいっぱいありましたが、夢や目標があったからこそ乗り越えられた。だから、自分がこうなりたい、やってみたいと思うことは大事だと実感しています。

 全体練習は平日で2時間、土曜日が午前中でした。その分、自主練習で他の選手の良いところを自分の目で盗んだり、いろいろと試したりしました。当時、YouTubeの映像はありません。自分で課題を見つけて考える力がついたし、色々なことに挑戦する力もついたのかなと思います。

 同級生にはよりすぐりの選手が多く、他に3人がプロ入りしました。それまで自分が一番だと思っていたことがそうではない、と。そう受け入れてからは気持ちが楽になりました。いいライバル心を持って競い合った仲間とは今でも会います。

 寮生活で先輩や自分の身の回りのことをこなしていたとき、それまでは家族に支えられていたんだと実感しました。野球は1人ではできません。何より、人に感謝する気持ちを持てました。プロ入りしてから児童養護施設や東日本大震災の被災地である福島県いわき市の訪問を続けていますが、「お互い頑張りましょう」という思いで交流しています。

 後悔もあります。3年夏の大阪大会は部内の暴力問題で出場できませんでした。主将をやっていて、チームをまとめる立場にあったのに、最悪な形で最後の夏を終えてしまった。当時は必死にやっていましたが、もっと、もっと、できたことがあったのではないか。後輩には今でも申し訳ないと思っています。

 高校野球は日本では特別なものです。卒業後も続けたり、この夏で野球に区切りをつけたりする選手がいると思いますが、いろんな苦しいことを経験して地方大会を迎えることに、まず自信を持ってもらいたい。

 野球はミスが多いスポーツなので、それをみんなでカバーし合って。最後は仲間を信じて、後悔のないように思い切って楽しんでほしいです。(構成・笠井正基、写真・西岡臣)

 いまえ・としあき 1983年生まれ、京都府出身。大阪・PL学園高から2001年秋のドラフト3巡目でロッテに入団。05年と10年の日本シリーズで日本一に貢献し、MVPに選ばれた。今季から楽天の監督に就任し、球団初の交流戦優勝を果たした。

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