開校からわずか3年で夏の夢舞台へ、そして初勝利――。漫画やドラマの話ではない。かつて、そんな奇跡を起こした高校が茨城にある。
1979年夏。茨城代表として甲子園初出場を果たした県立の明野と、4年連続16回目の出場となる高松商(香川)の試合は、4―4のまま延長戦にもつれ込んでいた。
炎天下の試合は、十三回まで進み、開始から3時間半に迫ろうとしていた。この日、先発したエースの斎藤郁夫(3年)は、一人で投げ続けていた。延長十二回までに対戦した打者は、40人を超えていた。もはや、精神力との闘いだった。
前日の8月8日に開幕したばかりの甲子園のスタンドは、満員の観客でふくれあがっていた。明野の地元、茨城県真壁郡明野町(現・筑西市)からも、バス100台で駆けつけた父兄や在校生ら4500人の大応援団が声援を送っていた。
この試合で斎藤は、六回表までスコアボードに「0」を並べていた。130キロ台後半の直球と、緩急2種類のカーブを駆使し、高松商打線を封じていた。
チームを率いていた監督の浅野正勝(80)は当時35歳。過去に茨城県内の2校で野球部監督を務め、夏の茨城大会で4強入りの経験もあった。
ただ、甲子園は選手たちと同じく初めて。「相手は全国の強豪。県の代表として恥ずかしくない試合ができればそれでいい」。試合前はそう思っていた。それが六回を終えて4点のリード。「かなわない相手じゃない。なんとかなるかもしれない」。浅野は心のなかで確信した。
だが七回表、高松商の反撃が始まる。暴投で1点を与えると、八回には3本の長短打で2点を失う。そして1点差で迎えた九回、ついに同点に追いつかれる。古豪が目覚めた。
ベンチには控えの2年生投手がいたが、試合での登板経験はわずか。斎藤は「自分のせいで追いつかれた。ここで踏ん張るんだ」と自らを奮い立たせた。
もちろん焦りや不安はあった。ただそれ以上に、自分たちの力が全国に通用することを示したい気持ちが勝った。延長十回から再びスコアボードに「0」を並べた。
そして迎えた延長十三回裏。斎藤の四球で1死一、二塁のチャンスをつくる。だが斎藤の次打者、主将の鹿野谷裕規(3年)の打球は投ゴロに。
斎藤は足から二塁に滑り込んだが、投手から送球を受けた遊撃手が先にベースを踏んでツーアウト。そして一塁に送球した。はずだった。
次の瞬間。満員のスタンドから、大歓声がわき上がる。斎藤が振り返ると、ボールは一塁手のミットを大きくそれ、外野のスタンド前を転々としていた。
一塁手がボールを追う間に、明野の二塁ランナーは三塁を蹴って、悠々と本塁を踏んだ。「諦めちゃいけない。力を尽くしていれば、運も味方してくれる」。63歳になる斎藤は、当時をそう振り返った。=敬称略(古庄暢)
高松商 0000001210000=4
明 野 0000310000001=5
(延長十三回)
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