自民党・安倍派で座長を務めた塩谷立 衆議院議員が9月10日に会見を開き、次の衆院選に立候補しない意向を明らかにした。そのまま政界を引退するという。塩谷議員をめぐっては派閥の裏金事件をめぐって離党を余儀なくされたため、「犬死したような思い」と最後まで恨みつらみが止まらなかった。

不出馬…そして政界引退へ

「私は今期限りで議員生活を引退致します。そして、次期総選挙には出馬致しません」

9月10日の会見で、開口一番このように述べた塩谷立 衆議院議員(74)。

(2024年9月)
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塩谷議員は当選10回のベテランで、麻生内閣で文科相を務めたほか、自民党では総務会長や選挙対策委員長などを歴任し、安倍晋三 元首相亡き後は最大派閥・清和政策研究会(安倍派)の座長に就いた。

(1990年)

ところが、派閥の裏金事件をめぐって離党勧告処分が出され、不服を申し立てたものの認められなかったことから2024年4月に党を離れている。

ただ、一連の問題は一部の議員に処分を下しただけで終わるはずもなく、“政治と金”は今回の総裁選でも主要な争点の1つだ。

岸田首相への恨みつらみを滔々と…

このため、塩谷議員は「もっと早く本質的な議論と国民の理解を得られるような政治改革をやるべきだった。首相も8月14日になって、やっと責任を取ることになったが、早く責任を取ってしっかり政治改革の話を進めれば、こんなに長引く話ではなかった」と強調した上で、「我々の処分は何だったのか?処分をやったら大体終わり、普通は。決着する時。結局何にもならなかったということ。最後に自分(岸田首相)が辞めるというのは、これは何なんだという思いがある。我々は犬死したような思い。ある程度、犠牲になってそれで自民党が助かったというなら、それでよかったかもしれないが、残念ながらそうはならなかった」と恨み節が止まらなかった。

(2024年3月)

また、「非常に悔しいし、大変憤りを感じている。真実を語っても残念ながら通らない、なかなか伝わらない。離党したことも大変不本意なこと。最初からこの問題は党全体の問題、政治全体の問題で、それを派閥だけに押し付けようとした考え方が大間違い」とも述べている。

当初は出馬意向 ところが一転して…

塩谷議員は無所属になった当初から周囲に対して次期衆院選に立候補する考えを伝え、取材に対しても「無所属で出馬ということは大変難しく厳しい。しかも逆風なので、それをいかに乗り越えられるか」と話していたし、選挙区内のポスターを「Re:START」という文字が書かれた真新しいものに貼り替えていた。

しかし、離党から5カ月近くが経って突如明らかにされた不出馬意向。

決断に至った理由については「あくまでこれからの地域、浜松のことを考えた上で今回引退して、新しい形で今まで積み上げてきたものを地域に貢献できればという思いで決断した」と口にし、この間、支援者などからも「選挙の厳しい状況を考えると、後継に委ねて次につなげるべき」という声が多数寄せられていたという。

選挙は間近?しかし支部長は不在

一方、このタイミングでの不出馬表明に頭を抱えたのが自民党静岡県連である。

首相交代に伴う内閣支持率の“ご祝儀相場”に期待して、党内で早期解散の熱が高まっている反面、衆院選で公認候補となる静岡8区の支部長は塩谷議員が離党して以降、空席のままとなっているからだ。

実は夏には井林辰憲 県連会長が小渕優子 選挙対策委員長など党幹部を訪ね、塩谷議員が立候補する場合でも候補者を擁立したい考えを伝えたが、森山裕 総務会長から「手荒なことをせず、候補者を立てるなら塩谷議員をきちんと説得しなさい」と言われ、棚上げ状態となっていた。

そこへ来て突然の“知らせ”だ。

これには県連関係者からも「なぜ今になって?」「タイミングが自己中心的過ぎる」「離党させられたことに対する嫌がらせか?」といった怒りや困惑の声が漏れた。

県連では静岡8区の支部長について9月19日まで公募し、22日の書類審査と面接を経て24日には党本部に上申する方針だが、巷で噂されている通り10月末や11月中旬の総選挙となれば候補者の決定から投開票まで長くても1カ月半しかない。

それだけに9月12日に行われた県内選出の自民党国会議員団の会議終了後に井林会長がつぶやいた。

「8区はかなり厳しい。失われた1カ月は大きい」

(テレビ静岡)

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