24日のプロ野球ドラフト会議で4球団による1位指名競合の末、中日ドラゴンズが交渉権を獲得した関西大の金丸夢斗投手。甲子園で長く審判委員を務めた公務員の父・雄一さん(48)は「さらに大きな夢をつかんでほしい」と喜んだ。
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私が元高校球児で、最近までアマチュア野球の審判をしていました。兵庫・明石トーカロ球場には小さい頃から連れて行き、外野の芝生で家族と一緒に私のジャッジする姿を見てくれました。
夢斗が今後、さらに上の舞台で野球をするなら迷惑がかかるかもしれないと思い、私は審判をやめようと決めました。今夏の全国選手権大会は甲子園球場に妻、長男と夢斗が最後の試合を見届けてくれました。
「斗」という字は、量をはかるひしゃくの意味があり、夢をつかんでほしいという思いを込めて名付けました。
彼が小学生で野球を始めたとき、ずば抜けて小さかったんです。ユニホームもだぼだぼ。兵庫・神港橘高に入った時は身長150センチ台で、体重50キロとちょっとでした。27人の同級生がいて2番目に低かった。
実は、左利きになるようにしむけたんです。赤ちゃんのころから左側におもちゃやボールを置きました。野球で役に立つかな、と。野球を始めてすぐに投手を任されたのですが、球が遅くて、打たれるとよく泣いていました。
だから小学生のときは、まずは「野球が楽しいぞ」と教えてあげたいと思って、プロ野球の試合もよく連れて行きました。家の中で短いバットと柔らかいボールで遊び、家の近くの公園でキャッチボールをしました。
グラブを構えて、「とにかく胸に投げてこい」と、そればかり言い続けました。よく親子のキャッチボールで子どもが投げたボールを親が走って取りに行く光景があるじゃないですか。今振り返ると、うちは1度も後ろにそらした記憶がないんです。当時からコントロールはよかった。
自分が審判から帰って来て、よく夢斗の試合を見に行きました。きょうだい2人とも、ありがたいことに反抗期がなかった。野球一家で共通の野球という話題があったからかもしれません。
高校3年のとき、新型コロナウイルスで春の大会、夏の甲子園も無くなりました。これまでにないくらい落ち込んだ夢斗を見て、私は5日間ほど声がかけられなかった。それでも、ずっと練習をやめずにやっていたんです。家の中でもトレーニングを続けていました。
独自大会の開催が決まり、ある休日でグラウンドに車で行き、キャッチボールをしました。久しぶりだったのですが、あまりに速くて、元球児の自分もちょっと怖くなったくらい。捕った手が痛くて、スピードガンで測ってみたら141キロだった。
独自大会の前に練習試合で審判をやらせてもらいました。そこで夢斗の球を見て、これは甲子園が投げている投手と遜色はない、一線級のボールを投げられている、と実感しました。
昨年のドラフト会議では1学年先輩の有馬(諒、現ENEOS)君が指名されず、ずっと申し訳なさそうな顔をしていました。自身がリーグ戦で優勝に貢献できず、「全国大会に行けば、有馬さんを見てもらえたのに」と悔やんでいました。3年間、捕手として球を受けてもらっていたので、感謝の気持ちが大きかったようです。
本当にストイックに野球に向き合い、ストローを呼吸法を学んだり、三点倒立で体幹を鍛えるトレーニングをやっていたりします。関西大に入ったおかげで、仲間や指導者に恵まれて高いレベルで向上心を持って練習に取り組んでいます。
小さい頃からマナーについては絶対に注意をしていました。子どもだと味方がエラーすると、いらいらの気持ちが顔に出ますよね。「そういった態度は絶対にするなよ」とよく言いました。むしろエラーをしたら取り返したり、声を掛けてあげたり、と。投手は打たれたら助けてもらうポジションです。最近試合を見に行くと、後輩がエラーした時に「オッケーだから」と言っている姿を見て、言ったことを守っているんだなと感じました。
今は身長177センチ。あれだけ体が小さかったのに、本当に大きく成長してくれました。ずっと実家から通学していて毎日姿を見ていたので、正直さびしいです。ここまで野球を続け、皆さんに応援して頂けるのは家族として本当に幸せです。これからも夢斗をよろしくお願いします。(構成・室田賢)
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