幼い頃、リレーで同じチームになった友人から「勝てないから(同じチームになるのが)嫌だ」と言われたのが悔しかった。「障害がある自分を完全に受け入れられなかった」小学生に、バスケットボールとの出合いが自信を与えてくれた。
置いてけぼりにされて
全く記憶にないが、車いすバスケットボール日本女子の柳本あまね選手(26)は2歳で突然歩けなくなった。
「多発性神経炎」と診断名こそ出たが、原因も治療法もまったく分からない。
検査や投薬を試みたが改善せず、物心ついた時は車いすに座っていた。
「生まれたときから負けず嫌い」
できない自分は許せなかった。小学校から大学まで健常者と同じクラスに通い、体育の跳び箱はよじ登った。
だが、どうしても全く同じとはいかなかった。小学校時代、仲良しだったはずのみんなが、ある日を境に車いすが入れない場所で集まるようになった。ボウリングに出かけた日、仲間に走り去られて取り残され、途方に暮れた。数日間、学校を休んで気持ちを整理した経験もある。
下を向きそうになった時、たまたま見ていたテレビの洋画で出合ったのがバスケットボールだった。
未経験だったが、小学6年の頃、地元の京都市から通える車いすバスケの強豪チーム「カクテル」を見学し、参加するようになった。
1日の練習を通じてボールを一度も触らずひたすら走り込むなど、徹底的に基礎的な走力や持久力を鍛えた。
上半身だけで放つ3ポイントが生きる道
もともと、体を張ったディフェンスが得意で徐々に頭角を現した。だが、それだけでは生き残れないと感じたのが、2016年リオデジャネイロ大会だった。高校1年だった14年のアジアパラ大会で初めて日本代表に選出され、実績を積んだが、リオ大会は代表入りを逃した。悔しさのあまり、日本代表の試合は一試合も見なかった。
車いすバスケの選手は一人一人、障害の程度に応じた持ち点があり、コート内の5人の合計を14点以内にするのがルール。2・5点の自分が、持ち点が近いほかの選手より秀でた「武器」を探し求めてたどり着いたのが、3点シュートだった。
コートの広さも、リングの高さも健常者と同じだ。スリーポイントラインは3・05メートルの高さのゴール真下から6・75メートル離れた楕円(だえん)形にひかれる。その外から、車いすに座ったまま上半身の力だけで的確に3点シュートを決める。そのための練習を本格的に始めた。
筋力トレーニングに加えてピラティスを取り入れた。体幹を強化し、ボールの飛距離を出すため、腕を高く上げるイメージで肩周りの筋肉や関節も柔らかくして可動域を広げた。
一番大切にしているのはタイミングと精神力。パスを受け取り、一定のリズムでリングに投じる。外れても気にせず、すぐ次のプレーに切り替えようと心がけている。
車いすバスケを始めた頃から指導してきた岩野博ヘッドコーチは「いろいろ悩みながら、それでも積極的にシュートを打ってくれる。今はチームで一、二を争う得点源になってくれた」と、柳本選手の成長に目を細める。さらに、パリはパラリンピック初選出で最年少だった21年の東京とは、立場も責任の大きさも違う。
東京大会で競技の人気を押し上げた男子は、パリの切符を逃した。女子は今大会、1次リーグを連敗スタートとなったが、自分たちが一つでも多く白星を重ね、そのバトンをつないでみせる。【パリ川村咲平】
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