バドミントン女子シングルス(上肢障害SU5)1次リーグ、第2ゲームでシャトルを返す豊田まみ子=ポルトドラシャペル・アリーナで2024年8月31日、玉城達郎撮影

パリ・パラリンピック バドミントン(上肢障害SU5)

豊田まみ子選手(32)=ヨネックス 準々決勝敗退

 初の大舞台で戦い終えた豊田まみ子選手(32)=ヨネックス=は、笑顔でインド選手とハイタッチをしてコートを去った。「夢がかなって良かった。現地で応援する家族に楽しむ姿を見せられた」。1日のバドミントン(上肢障害SU5)の女子シングルス準々決勝で敗退。だが、その表情は充実感にあふれていた。

 バドミントンが初採用される東京大会に向け、代表選考レースのまっただ中だった2020年2月、試合中に「ドン」と音がした。

 次の瞬間、倒れ込んで動けなかった。以前から痛みが出ていたアキレスけんの断裂だった。コロナ禍で大会が延期され、実戦復帰にはこぎつけた。だが、代表入りはならなかった。

 東京大会に届かなくてつらかったのは、自分自身が悔しかっただけではなく、「周りに悲しい思いをさせてしまった」ことだった。その一人として思い浮かんだのが、高校時代の部活動の恩師だった。

 生まれたときから左肘の先がなかった。母親の趣味に乗じて始めたバドミントンで、しばらく健常者と渡り合っていた。

 高校2年の時、バドミントン部の顧問から初めてパラの大会を紹介された。「無縁だと思った」と最初は断ったが、顧問からは「自分が障害を持っていることが理由で出ないなら、心まで障害を持つことになるよ」と言われた。恩師の言葉に自分の未熟さを指摘されたような気がした。考える時間をもらい、パラ大会の出場を決めた。

 そして、念願のパラリンピック出場を果たした。パリの地に立つと、「やるしかない。自分の力を出し切るしかない」と割り切って考えられるようになった。1次リーグではパラリンピックで初の白星も挙げた。

 恩師に諭されてから10年以上が過ぎた。今は「障害の有無に関係なく、みんなバドミントンを楽しめる。パラスポーツを身近に感じることができる」。大歓声を浴びながら大好きなバドミントンで世界とつながる姿は、人間としても大きく成長した証しだった。【パリ川村咲平】

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