開場100周年となった阪神甲子園球場で開かれた第106回全国高校野球選手権大会で、東東京代表の関東第一は決勝まで進んだ。初優勝にはあと一歩届かなかったが、堅守と粘り強い攻撃を最後まで貫いた。

 チームを率いたのは、米沢貴光監督(49)だ。試合後「投手中心に守備のチームを作ることができた」と振り返った。

 米沢監督にとっては、春夏11回目の甲子園で初めての決勝だった。ただ、選手としては甲子園の土を踏めなかった。

 関東第一の選手だった高校最後の夏。1993年の東東京大会、甲子園への切符をかけて修徳との決勝に臨んだ。

 1点差を追う九回2死二塁。自身に打順が回ってきた。

 相手の投手は、後に巨人や大リーグなどで活躍する高橋尚成さんだった。フルカウントから外角の直球を見逃して、試合が終わった。

 「高校球児なら甲子園は行くのが当然だと思っていたし、自分も行けるものだと思っていた」

 卒業後は中央大や社会人のシダックス(東京、廃部)で野球を続けた。

 でも、あの日の悔いは消えなかった。

 「やっぱり甲子園の大会を見ると、あの地を踏めなかったっていうのがどうしても悔しくて」

 社会人野球を終えたころ。高校時代の恩師のもとを尋ねた。小倉全由(まさよし)さん。97年から日大三で指揮を執っていた。

 「ずっと言ってた指導者になるのが、いいんじゃないか」

 2000年8月、母校の関東第一で監督になった。

 学校がある江戸川区は東京の下町の中でも、野球が盛んな地域。自身も江戸川区で生まれ育った。「少年野球の練習をした後に、近所の神社や駄菓子屋に行ったりして。遊びのなかに野球があった」と振り返る。

 自身を育んだ「下町野球」で育った選手のほかにも、近年は関東を中心に全国から「野球で人生を切り開こうとしている子たち」が門を叩く。

 当初は、恩師の小倉さんのような「9点取られたら10点取り返す」野球をめざし、長時間の厳しい練習を課すこともあった。

 だが、東東京には当時、帝京という大きな壁があった。「自信があったチームで挑戦したときも全く歯が立たなかった」。07年の春の都大会準々決勝で、6―20で6回コールドの大敗を喫し、指導方針を変えた。

 大学時代の同級生で社会人のワイテック(広島、廃部)でプレー後、監督を務めていた臼井健太郎部長を07年、コーチとして招いた。臼井部長とともに、状況を細かく設定した実戦練習を増やした。

 選手にはこう説いた。

 「プロ野球選手が考えていることを、考えることはできる」

 体での表現力はプロに及ばなくとも、思考に限界はない。自らの頭で考えることを求めた。

 考えることを求めるのは、自身の高校最後の打席の後悔もあるからだ。「打席で頭が真っ白だった」

 こうして生まれたのが「負けづらい野球」だ。

 今大会、選手たちは「自分たちができること」を考えた。たとえバットの芯で捉えていない凡打であっても、全速力で次の塁を狙った。走者が出れば、進塁打を打つことを徹底した。

 明徳義塾(高知)との3回戦、東海大相模(神奈川)との準々決勝、神村学園(鹿児島)との準決勝はいずれも1点差での勝利。準決勝では、九回2死一、二塁からの外野に抜けた打球を中堅手の飛田優悟の好返球で本塁タッチアウト。決勝進出を決めた。

 相手を圧倒できなくても、選手一人ひとりができることを磨き、粘り強く、しぶとく勝ち抜いた。

 京都国際との決勝も、遊撃手・市川歩の好守などで九回まで互いに無得点の接戦となった。だが、延長十回タイブレークの末に1―2で敗れ、準優勝となった。

 米沢監督は「勝つためのあと一歩を今後の課題として、また戻ってきたい」と誓った。(佐野楓)

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