日本代表としてプレーする後藤将起選手=©鰐部春雄/日本ブラインドサッカー協会

 今の自分は、作文でどう書かれるのだろうか――。パリ・パラリンピックのブラインドサッカー日本代表、後藤将起選手(39)は、2016年に突然両目の視力を失った。絶望して家に閉じこもっていた時にふと頭に浮かんだその思いが、ブラインドサッカーと出会うきっかけとなり、パラリンピック出場の原動力になった。

 後藤選手は広島県熊野町出身。Jリーグが開幕した1993年、小学2年で地元のサッカーチームに所属した。中学3年の時に全国大会に出場した経験もある。宮城県の大学へ進学し、卒業後は理学療法士として広島県内の病院で勤めていた。

 2016年2月、仕事の訪問先で昼間なのに外が暗いように感じた。「雨でも降るんですかね」と患者に尋ねると、「ものすごい晴れているよ」と返答された。「何かがおかしい」。仕事を切り上げて勤務先の病院に車で戻った時には、ほとんど周りが見えなくなっていた。目で見た情報を脳に伝達する視神経が原因不明の炎症を起こしており、視力を完全に失った。

 仕事を辞め、妻や子どもたちがいない昼間は自宅でほとんど寝て過ごした。家族が買い物などで外に連れ出してくれても、人混みが怖くて駐車場で待っていた。「死んだ方がまし」と思い詰めた。

後藤将起選手©鰐部春雄/日本ブラインドサッカー協会

 そんなある時、ふと自分が小学生の頃に家族のことを紹介する作文を書いたことを思い出した。「子どもたちは今の自分をなんて紹介するんだろう。こんな自分を書くのはいやだろうな」。働いている姿を見せたいと考え、しんきゅう師の資格を取るため特別支援学校に入学した。

 学校に通い始めてからしばらくして、体育館から「シャカシャカ」と鳴るボールの音が聞こえた。近くに行ってみると、広島のブラインドサッカーチームが練習をしていた。ブラインドサッカーは、音を頼りに行われる5人制サッカーだ。ピッチは縦40メートル、横20メートル。アイマスクを着用し、鈴入りのボールを使う。

 サッカーの経験者として簡単にできると思っていたが、いざプレーしてみると、ボールに触るどころか、自分がピッチのどこにいるのかすら分からない。「やるからには全力でやりたい」。週1回のチームの練習以外にも、学校の体育館でドリブルや転がったボールを取りに行く自主練習をするようになった。ブラインドサッカーの日本代表という目標ができた。

 2年前からはより良い練習環境を求め、妻と幼い3人の子供を広島市に残して単身で上京。23年の2月に初めて日本代表に選ばれた。6月にフランスで行われた国際大会では、チーム最多4得点を挙げ得点王に輝くなどチームの信頼も勝ち取り、パラリンピックへの出場が決まった。

 「目が見えなくなって引きこもり、一時は死にたいとも考えていた。妻につらく当たったこともあった。それでも家族は応援してくれた。『やれるところまで挑戦したらいい』と言ってくれた」

 パラリンピックには、広島市から家族も駆けつける。子供たちからは「シュートを決めて」と言われているという。後藤さんは「家族に支えられてここまで来ることができた。結果を残して恩返しをしたい」と誓った。【井村陸】

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