第106回全国高校野球選手権大会で、関東一(東東京)は初めて決勝まで進んだ。関東一が育んできたのは、準備する大切さと自ら考える力だ。土台には、あと一歩で甲子園の土を踏めなかった指揮官の思いが込められている。
2000年から指揮を執る米沢貴光監督(49)は、関東一のOBだ。中央大を経て、社会人野球のシダックスで2年間プレーした後に現役を引退した。関東一時代の恩師である、日大三を率いていた小倉全由(まさよし)さんのもとへ引退のあいさつのために足を運んだ。「指導者になりたいのなら、早いほうがいい」と監督の道に背中を押された。
米沢監督は高校3年夏までの半年間、小倉さんから指導を受けた。やや規律が緩んでいた野球部の中で、小倉さんは「ヨネはまじめないい生徒だった。彼なら(監督を)やれると感じた」と振り返る。
米沢監督は、関東一のコーチを経て監督に就任した。当初は選手の技術向上を重視し、厳しく指導したが、結果に結びつかなかった。07年には春季東京都大会の準々決勝で帝京に6―20で六回コールド負けし、考えを変えた。「(強打の帝京と)同じことをやっていても勝てない」。守備と機動力を磨いた。進塁打でしぶとく1点をもぎ取る野球を目指す出発点だった。
15年夏にはオコエ瑠偉選手(現巨人)らを擁して初の4強入りを果たした。一方で、アッパースイングで打球の角度を上げ、飛距離を伸ばす「フライボール革命」など、時代の変遷の中でチーム作りに悩んだこともあった。
大切なことを思い出させてくれたのは、19年夏に3年ぶりに甲子園に出場した選手たちだ。当時のエース右腕・土屋大和投手(現日本製鉄鹿島)が「絶対的な存在がいない代で、誰かに頼るのではなく、それぞれが自分のできることを全うすれば勝てるというチームだった」と振り返る。飛び抜けた選手はいなかったが、堅守と機動力を軸に8強入りした。
全体練習は実戦形式で勝負勘を身につけ、自主練習では選手の考える力を養う。選手に「準備」と「考える力」を求める米沢監督だが、原点は高校時代最後の打席にある。
高校3年だった1993年夏の東東京大会決勝。修徳と対戦し、関東一は九回に2点を奪って1点差に迫り、なおも2死二塁で米沢監督が打席に立った。一打同点の場面。マウンドに立っていたのは、巨人などで活躍した高橋尚成投手だ。結果はフルカウントの末の見逃し三振。甲子園への道は閉ざされた。
「正直、頭が真っ白になっていた」。緊迫した場面で冷静に考えることができなかった自分を今も悔いる。その経験から選手には「結果を出すためには準備が大切」と言い続ける。
今夏を前に、米沢監督は当時の話を選手にした。チームは消極的なプレーが続き、状態が落ちていた時だった。「(自分のように)バットを振らないで終わってほしくない。何もできずに後悔はしてほしくない」。監督の思いに応えるように「攻める守備」という堅守を軸に初の決勝まで進んだ。
米沢監督は、今大会のウイニングボールを各試合で活躍した選手にプレゼントしてきた。「選手たちの汗を見ていると、やっぱり彼らが主役だなと思う」と口にする。16日に明徳義塾(高知)と対戦した3回戦だけは違った。翌17日に49歳の誕生日を控え、選手からウイニングボールをプレゼントされた。「うれしかったです」。監督と選手が思いを一つに戦った甲子園だった。
決勝後、米沢監督は「たくさんの挑戦をして成功に結びつけてくれた。そこにはしっかりと準備していたものがあると思う」と選手たちをたたえた。【円谷美晶】
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