転機は高校1年の春。陸上競技のやり投げとの出会いで、人生が変わった。パリ・オリンピックで、陸上の投てき種目で日本女子勢として初めて五輪の金メダルを獲得した北口榛花選手(26)=JAL。やり投げにいざなった高校時代の恩師は「あまりにもすごすぎて、言葉が出ません」と声をうわずらせた。
水泳も続けてよいのなら陸上部にも入る――。高校1年の入学式。陸上部への勧誘にきた恩師にこう条件を提示した。入部を誘ったのは当時、北海道旭川東高校で陸上部の顧問を務めていた松橋昌巳さん(69)だった。
入学式前、北口選手の中学時代の先輩で、当時陸上部のマネジャーを務めていた女子生徒が松橋さんに「体が大きく、水泳やバドミントンで全国的に活躍した選手がいる。投てきに向いていると思う」と伝えていた。この一言が、北口選手を競技に導いた。
北口選手は幼少期から水泳とバドミントンに打ち込んでいた。そして、高校入学時には、水泳でインターハイに出ることが一つの目標だった。そのため、あくまで当時の北口選手のメイン競技は水泳だった。陸上部での練習は平日は1時間半ほど。ウオーミングアップをして、やりを何回か投げると練習を途中で切り上げ、水泳クラブの練習に向かった。
やり投げを始めて約半月。初めて「記録会」に出場し、30メートル超の投てきを見せた。
やり投げは、複雑な種目だ。やりを持っての助走はスピードが必要だ。その終盤には器用さが求められるクロスステップが待ち受ける。そして、体の前進を急に止める技術。選手たちは投じるやりに可能な限りのエネルギーを伝え、遠くに放つ。やりには直進性を保つため回転まで掛けられる。
「高校の3年間で、頑張っても30メートルに届かない子もいる。皆の半分しか練習していない中でこの距離を投げるのは才能だ」。松橋さんは確信した。
6月の全道大会では45メートル超えを記録し、優勝。10月の日本ユース選手権(現・U18日本選手権)ではさらに記録を伸ばし49メートル31を投げた。この記録をきっかけに、北口選手はやり投げに専念する決断をした。
松橋さんは水泳で肩甲骨周りの柔軟性が高まったことが「その後のやり投げにプラスになった」とみる。また、バドミントンで鍛えた肩の強さも、好成績を支えているとみる。「バドミントンで(コートの後方に高い軌道で打ち上げる)ハイクリアは肩の使い方や腕の振りでやり投げに共通する部分があったと思う」
「やり投げに必要な身体的な能力をいろいろな競技で養ったのでしょう。幼少期からの運動経験がなかったら、今の北口はない」。そう断言する。
松橋さんが北口選手のことを「人間業とは思えない」と評するエピソードがある。高校2年の春に53メートル08の投てきを記録した。「これで日本選手権に出られます!」と興奮気味に松橋さんの元に走って戻ってきたという。本格的に始めてから1年もたっていない中、日本選手権を目指し、参加標準記録も突破する記録を出してしまった。「私の頭の中には日本選手権なんてなく、絶えず上を目指す子だと驚かされた」と述懐する。
高校3年時に世界ユース選手権で優勝。世界を意識するようになり、松橋さんも「世界のトップに立つ」と確信した。だが、日本大に進学後、師事していたコーチが急きょ退任。練習環境が変わると、2019年に単身、強豪国チェコに渡った。
21年の東京五輪は12位。だが、23年8月の世界選手権ブダペスト大会で、最後に放ったやりはぐんぐん伸び、66メートル73を記録した。世界選手権の投てき種目で日本女子勢初の金メダル。「誰もできなかった結果にたどり着けて、本当にうれしいです」と喜びを爆発させた。
松橋さんが北口選手と出会って11年。パリ五輪の予選、決勝ともに北海道からテレビ中継で見守った。
迎えた決勝。「他の選手に先制パンチを浴びせてプレッシャーをかけようと思った」。試合後、北口選手がそう明かした1投目がすべてだった。65メートル80。今季の自己最高記録をマーク。他選手の追随を許さなかった。
「23年に(世界選手権で)世界一になって以降、苦しい状況だったと思うが、狙ったことをやり遂げた。今まで見たことがないような1投目の先制パンチだった」と松橋さん。
日の丸を肩に満面の笑みでフランス競技場を一周した教え子に、松橋さんはLINE(ライン)を送った。「おめでとう。歴史に名を残すね」。パリの金メダリストは恩師にこう応じた。「北海道に帰るのは先になるけれど(直接会って、金メダルを)取りましたと報告したい。次は70メートルを投げたい」【パリ木原真希】
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