佐藤大宗とは

佐藤大宗選手は青森市出身の30歳。子どものころから取り組んでいた水泳を生かせる仕事に就きたいと、高校卒業後に海上自衛隊に入隊し教官からスカウトされて競技を始めました。

フェンシングに加えて、ランニングと射撃を組み合わせたレーザーランを得意とし、去年行われたワールドカップでは2位に入り、日本選手で初めて表彰台に立ちました。

そして去年9月のアジア大会で6位に入ってパリオリンピックの出場枠を獲得し、その後の国際大会の成績なども踏まえて、初めてのオリンピック代表に決まっていました。

初のメダル 支えとなったのは…

「やるなら死ぬ気でやれ」

近代五種で日本選手として初めてメダルを獲得した佐藤選手が支えとしてきたのが、厳格な父のことばでした。

初めて出場したパリオリンピックの前、大会に向けての意気込みとして佐藤選手は「死ぬ気で戦うのみ」と自分に言い聞かせるように繰り返しました。それは子どものころから少林寺拳法や水泳に励んでいた佐藤選手が父親の勇蔵さんからいつも言い聞かされてきた「何事もやるなら死ぬ気でやれ」ということばがもとになっていました。

厳格な父親 それでも…

トラック運転手の勇蔵さんは佐藤選手にとって厳格な父親でした。子どものころには怒られて、雪が降り積もる家の外にたたき出されたこともありました。反発を覚えることもありましたが、挫折したときに支えてくれたのも父のことばでした。

2019年の全日本選手権で4位となった佐藤選手は日本代表から外され、目指してきた東京オリンピックへの道が閉ざされました。目標に届かずに引退を決意し、勇蔵さんにも電話して伝えたところ「やめるんだったらやめればいい」と言われたあと「ボロボロになるまでやったのか。やるなら死ぬ気でやれ」と言われたといいます。

子どものころから聞き慣れた父のことばを改めて聞いて「自分は逃げている」と感じた佐藤選手は、再びオリンピックを目指すことを決めました。

フェンシングを強化

そこから強化に力を入れたのが、海外勢との差を感じていたフェンシングでした。コーチのつてをたどり、東京大会で金メダルパリ大会でも銀メダルを獲得した男子エペ団体のメンバーと一緒に練習を始めました。

子どものころに練習していた少林寺拳法で培った独特な間合いに加えてフェンシング世界トップレベルの選手にももまれて高度な技も吸収し、日本代表の石川公文監督が「世界のトップレベルの選手が警戒しても、技が読めないくらいレベルが上がった」と高く評価するほどになりました。

勢い止まらず銀メダル

その成果は初めてのオリンピックの舞台でも発揮されました。

初日に行われたフェンシング。エペによる1分間1本勝負で出場する36人が総当たりで対戦する「ランキングラウンド」では、佐藤選手は6位につけて好スタートを切りました。そして「フェンシングで流れに乗ったらその後の競技も勢いに乗る」と話していたことばどおりに、すべての競技を1日で行う2日目以降も準決勝でフェンシングと馬術で得点を伸ばして全体の2位で通過。決勝でも勢いが止まることはなく、銀メダルを獲得しました。

大会前 父親との面会で…

実は勇蔵さんはおととしから認知症などを患って入院をしています。それでも佐藤選手が大会前に面会に行くと「死ぬ気でやってこい」と激励を受けていました。

父のことばを支えに初めて挑んだ大舞台。30歳の息子が日本選手として初めての快挙を成し遂げました。

近代五種とは

近代五種は近代オリンピックの父・クーベルタン男爵が古代オリンピックで行われていた「やり投げ」「円盤投げ」「幅跳び」「短距離走」「レスリング」の「五種競技」にヒントを得て考案し、1912年のストックホルム大会から実施されています。

現在は「フェンシング」「水泳」「馬術」に加えて、「ランニング」と「射撃」を組み合わせた「レーザーラン」で総合得点を競います。

これを1人で行うことから、近代五種は海外では“キングオブスポーツ”とも呼ばれています。ヨーロッパ勢が強い競技で日本は1960年のローマ大会で初出場して以降、男女を通じて8位以内の入賞を果たした選手はいませんでした。

一方で馬術をめぐっては、国によって環境を整えるのが難しいことや安全面をどう整備するかなどが課題となっていて、2028年のロサンゼルス大会では馬術に変わって障害物レースが行われることが決まっています。

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