スパーリングに汗を流す元木咲良選手(左)=群馬県高崎市の育英大で2024年7月11日午後6時、日向梓撮影

 パリ・オリンピックのレスリング女子62キロ級に登場する元木咲良(さくら)選手(22)=育英大助手=は、2000年のシドニー五輪に出場した父康年さん(54)の影響で、物心がつく前からマットに親しんだ。だが、結果が出せず、けがに泣いた時期も短くはない。「エリートではなく、不器用」と自認し、悔しさをバネに大舞台に挑む。

 康年さんがシドニー五輪男子グレコローマンスタイル63キロ級に出場し、決勝トーナメントに進めず現役引退を表明した2年後に生まれた。3歳で地元・埼玉のクラブに入ったが、対戦相手との握手を怖がり、涙を流すこともしばしば。大会でマットに上がれず棄権することもあり、康年さんは「やめさせた方がいいかな」と悩んだという。

レスリングを始めたばかりのころの元木咲良選手(左)=元木康年さん提供

 それでも、小学生だった元木選手は、自衛隊体育学校でレスリングを教えていた康年さんが帰宅すると、夕食前に布団や枕を使ってタックルを練習した。

 元木選手は「できるようになるまで終わらないので大変でしたね」と苦笑いする。相手の脇をくぐり背中をとる技は、腰から下をつかむことが禁じられているグレコローマンスタイルの選手だった康年さんから学んだ。「父から投げ技を教わることもあったけれど、反抗期で言うことを聞きたくなくて。父譲りの技はこれだけです」

 思うような結果がほとんど残せず、トップの座は遠かったが、埼玉栄高2年時に初めて全国大会で優勝する。だが、進学した育英大2年だった21年夏、膝の靱帯(じんたい)断裂で半年の静養を余儀なくされた。ライバルや身近な選手が活躍する姿に、ただ悔しさを募らせた。

 「練習場に行きたくない」と高校時代の先輩に相談したところ、「けがで練習に参加できない時は、他の選手の良いところを盗むようにしていた」と助言された。「私、何をしてたんだろう」。練習場の隅で、とにかくメモを取ることから始めた。

スマートフォンで元木咲良選手の写真を示しつつ、思い出を語る父康年さん=さいたま市大宮区で2024年7月7日午後6時33分、日向梓撮影

 目の前の他の選手の動きを分析し、復帰後にやりたいことを書きとめ、自分やライバル選手の試合の映像も繰り返し見た。大学入学当初の練習日誌への記述は1日あたりノート1ページ程度だったが、2ページ、3ページと書き込む量が増えた。「五輪に出たい」「レスリングを好きになりたい」自分を正面から見つめ、思うところもそのまま書きつづった。

 傷が癒えると、映像で繰り返し見た技を自分の体で再現し、新しい動きを自分の体に覚えさせた。けがを経て、競技を深く理解できるようになった気がした。つらい練習も、楽しいと思えるようになった。

 パリは「リベンジの舞台」だ。五輪の出場権を得た23年9月の世界選手権では、決勝で東京五輪銀メダルのアイスルー・ティニベコワ選手(キルギス)に敗れた。4月のアジア選手権決勝でもティニベコワ選手に敗れ、3連敗中だ。「彼女に勝たないと金はない。そのために準備している」と闘志を燃やす。

 負けが続いても、けがで思うような練習ができなくても、諦めなかった。親として、同じ競技をする先輩として、いつもそばにいて父は見守ってくれた。「父は選手としても指導者としても五輪チャンピオンに届いていない。私が」との思いも胸に五輪のマットに立つ。【日向梓】

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