夏の甲子園に出場する札幌日大(南北海道)の田中涼介選手(3年)に野球の楽しさを教えてくれたのは、天国の父だった。たくさんの助言は今も胸に刻まれ、今夏はその言葉をかみ締めながら聖地にたどり着いた。「ずっと応援してくれた恩返しをしたい。お父さん見てて」。父の写真を見つめ、そう約束した。
父植次(しげじ)さんとの一番の思い出は、週末の夜、自宅のリビングで練習試合の動画をテレビに映し、「振り返り会」をした日々だ。小学4年で野球を始めると、植次さんはほとんどの試合の応援に来ては、動画撮影をしてくれた。帰宅後に家族でそれを見て、あれこれ話し合うのが楽しかった。
打撃が得意で、チームでは4番。打てるとますます野球が面白くなり、「もっと上手に打ちたい」と夢中になった。
そんな田中選手を後押ししようと、野球経験のない植次さんは手を尽くしてくれた。打撃のコツを教えられるように動画投稿サイト「YouTube」で学び、自宅の車庫にはフォームを確認するための全身鏡を設置。打席に立った時の動きを客観的に振り返れるようにと、動画撮影にも熱心だった。
昔から打撃の時に頭を前に突っ込みすぎる癖があり、植次さんからは「軸足の膝を折りすぎるから上半身がぶれる。軸足をしっかり残すようにしよう」などと何度も助言された。常に隣で寄り添ってくれる父に温かく見守られながら、少しずつ成長してきた。
「お父さんのおかげで、自分の頭の中のイメージと実際の体の動きがずれていることに気づけた。得意な打撃を伸ばす上で、大事なことをたくさん教わった」
だが、田中選手が高校1年の冬、植次さんはがんと診断され、約半年後の2023年5月8日に57歳の若さで亡くなった。高校では公式戦で活躍する姿を見せられないままだった。動揺と悲しみの中、ひつぎの帯に書き込んだ。「絶対にレギュラーになるから見てて」
元々は内野手だったが、外野手に転向。初めて背番号10をつけた2年秋は、主に代打要員だった。3年春の道大会もメンバー入りしたが、一度も試合には出られなかった。
「このままじゃ皆に追いつけない」。切実な思いから、日課の居残り練習の時間を午後9時半まで延ばし、チームで一番遅くまでバットを振り続けた。
迎えた今夏、成果が実った。南北海道大会の札幌地区大会で初の公式戦先発出場を果たし、父に誓った通り左翼のレギュラーに定着。17だった背番号は、甲子園では7に変わる。菊地飛亜多主将(3年)は「つらい時期や伸び悩む時期も、毎日必ず遅くまで残って打撃練習をしていた。頼もしい仲間だ」と信頼を置く。
8日の1回戦は京都国際と対戦。毎日使ってきた野球バッグには透明の袋に大事にしまった父の写真を入れており、大一番も父とともに臨む。「つらい練習も、病気と闘ったお父さんを思うと頑張れた。甲子園の打席に立って、自分の役割を果たしたい」。親子で磨いた打撃を武器に、初戦突破の準備は万全だ。【後藤佳怜】
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