日本泳法大会で披露された浜寺水練学校の「大名行列」=大阪府門真市で2016年8月21日午後2時8分、川平愛撮影

 パリ・オリンピックで熱戦が続いている。華麗で力強い演技で人々を魅了するアーティスティックスイミング(AS)は、日本のメダル有力候補だ。日本のASのルーツは、かつて瀬戸内海の制海権を握った海賊、村上水軍の水術「能島(のじま)流」にある――。そんな話を聞き、歴史を調べてみた。【谷田朋美】

 音楽に合わせ、水中で立ち泳ぎをしながら体を動かし、技の完成度や芸術性などを競う。ASは欧州が起源とされ、20世紀に米国で発展。1934年のシカゴ万博でシンクロナイズドスイミングの呼び名で人気が広まった。五輪では84年のロサンゼルス大会で初めて採用され、2018年に名称がASに変更された。

「能島流遊泳術」に描かれた、よろいかぶとを着て泳ぐ方法を説明した図。「遊泳術中至難のものである」と記されている

ASにつながる泳ぎ、江戸時代にも

 能島流の基本は「立ち泳ぎ」で、別名「太刀泳ぎ」とも言われる。今年、能島流第23代宗家に就任した吉村道和(みちかず)師範(67)は「刀を持ったり射撃したりするには、水の中で両手を使えることが必須だったのでしょう。アーティスティックスイミングに通じる泳法が戦国時代には編み出されていたと伝わっています」と話す。

 村上水軍は瀬戸内海を根城とし、戦国時代に中国地方で勢力を拡大する毛利元就と組んで勇名をとどろかせた。海戦の勝敗が戦局に影響を及ぼすようになると、戦国大名は水軍のための戦法を整えていったという。こうした背景のもと、主に江戸時代に発展した泳ぎ方が現在の「日本泳法」で、日本水泳連盟は能島流を含む13流派を認定している。

「能島流遊泳術」に描かれた馬を水中に乗り入れて泳がせる術を説明した図

 泳ぎを重視した戦国大名の一人が徳川家康だった。「遊泳と乗馬は、自らよく修練せよ」と子供たちに言って聞かせ、自らも高齢になるまで訓練を続けたと伝わる。家康の十男で紀州徳川家の祖・頼宣に仕えたのが水軍戦術家で能島流第12代宗家の名井重勝だった。こうして能島流は江戸時代に紀州藩士の間で発展した。

 武士の教訓に「一足・二水・三胆・四芸」がある。第一に健脚、第二に泳ぎが達者であること、第三に胆力を養う、最後に武芸を修練するという意味で、武芸に先行する武士の基本条件が健脚と泳ぎだった。能島流宗家によると、紀州藩では藩士が水死すると家が断絶させられたという。

能島流を伝承するハマスイ

「能島流遊泳術」に描かれた水中での発砲の仕方を説明する図

 1905(明治38)年には、重勝の親族の末裔(まつえい)で第17代宗家の多田一郎が著書「能島流遊泳術」を記し、泳法や歴史をまとめた。

 能島流を伝承してきたのが、その翌年に開設された浜寺水練学校(ハマスイ)だ。多田の弟子が42年間師範を務め、多田がハマスイで直接能島流を教えたことも。70年以降はハマスイの師範が能島流宗家を兼ねることになる。

 25年、能島流の技を一つの流れに組み立てて演技する「楽水群像」が生み出され、一糸乱れぬ演技でハマスイの名物になった。50年には音楽を取り入れようと研究を重ねていたハマスイの指導者らが米国のAS競技の存在を知り、「楽水群像」に通じると確信。日本で初めてAS教育を始めた。

「能島流遊泳術」を手に能島流の歴史に思いをはせる吉村師範(右)とハマスイの校友会「浜寺水陽会」の園田明雄会長=大阪市北区で2024年7月11日午後2時44分、谷田朋美撮影

 毎年夏に堺市で開かれる水泳教室のハマスイでまず仕込まれるのが、足だけで立った姿勢での泳ぎ。立ち泳ぎができるようになると、水をはね上げて空中にジャンプする「鯔飛(いなとび)」や底でじっとしたままの「底息(そこいき)」などの技を習得する。中には拘束状態のまま前進する奥義「手足搦(てあしがらみ)」といった技もあり、どれも実戦的だ。

 「日本のアーティスティックスイミングの母」と呼ばれる井村雅代さんもハマスイで学び、教えた一人だ。84年には、ロサンゼルス五輪でハマスイの選手が銅メダルを獲得。今もASの指導者にはハマスイ出身者が少なくない。

 吉村師範は「戦国時代の泳ぎが時を経てハマスイで欧米文化と出合い、日本のアーティスティックスイミングに興隆をもたらした。パリ五輪では、そんな歴史にも思いをはせてほしい」と力を込めた。

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