岡山県立岡山朝日高校の創立150周年を記念した野球の試合が21日、岡山市中区の同校であった。126年前に初の県外遠征で挑んだ香川県立高松高校を招き、明治時代と同じグラウンドで熱戦を繰り広げた。

 朝日高(旧制岡山中・岡山一中)は岡山城内にあった「温知学校」に予科が開設された明治7(1874)年を創立の年としている。

 明治30年ごろから野球熱が高まり、校内で「ベースボールマッチ」が開かれた。同31(1898)年には対外試合に乗りだし、三高医学部(現・岡山大医学部)、高梁尋常中(現・県立高梁高)に勝利。海を渡って8月1日に高松尋常中(現・香川県立高松高)に挑んだ。

 朝日高資料館長の後神泉教諭は「まだ野球部は組織されておらず、全校から競技にたけた生徒を『撰手(せんしゅ)』に選んだ」と説明する。

 現在の生徒会にあたる「尚志会」発行の雑誌「烏城(うじょう)」18号(同年10月)には「右野将」(右翼手)として出場した水谷武が報告を書いている。後に女優水谷八重子(初代)を育てる演劇人の若き日だ。

 「監督(リーダー)」も兼ねた水谷の「碧血熱涙 高松野球競技敗北記」によると、岡中が一回表に3点を先取。裏の高松は先頭が「ファイブ」(現在の四球。当時は打者がボール五つを選ぶと出塁できた)で出たが得点できなかった……が、手記はここで終わり。

 選手個人の得点だけが記され、合計すると岡中が19対20で敗れたと分かるが、経過は定かでない。水谷は「記するも、悲愴(ひそう)の事なるぞかし」と悔しがっている。

 再戦(日時不明)にも敗れた岡中は明治34(1901)年11月24日に初めて高松中を岡山に招いた。会場となった六高運動場は現在の朝日高グラウンドで、この時も敗れた。明治36(1903)年7月に4戦目で初勝利。これを記念し、翌年2月に撮影した写真が残っている。

 岡山一中は大正10(1921)年、全国中等学校優勝野球大会に初出場。岡山勢初、戦前唯一の全国大会出場となった。高松中も大正4(1915)年の第1回大会を含め4度出場、プロ野球・西鉄の三原脩監督らが輩出した。2005年には高松高として21世紀枠で選抜大会に出場している。

 近年は毎年、定期戦を組んでいる。記念試合に先立ち、朝日高の鈴鹿貴久校長は「本校は高松中の胸を借りて強くなった。ありがたい関係を続けさせていただいている」とあいさつした。

 この日は126年前の初対戦と同じく朝から雨模様。やはり先攻になった朝日が一回に4点を先取、先発の寺田康高投手(3年)が5回を被安打1、8奪三振で無失点に抑えた。高松も六回の継投機に2点を返したが、7―2で朝日が逃げ切った。

 高松の土井悠生主将(3年)は「去年も一昨年も負けていたので悔しい。お互い長い歴史なんだな、と思います」。朝日の香川旺介主将(3年)は「歴史の系譜の一部となる試合をしっかり勝ち切れてうれしい。自分たちが卒業しても長く続けていきたい」と話した。(大野宏)

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