一度敗れた者が再起して巻き返すという意味の「捲土(けんど)重来」。パリ五輪柔道女子78キロ級代表の高山莉加(三井住友海上)が中学まで通った道場に掲げられていた言葉だ。その頃は意味も分からず眺めるだけだった。29歳の今「この言葉が自分にぴったり」と実感している。何度も五輪を諦めかけた。そのたび、かすかな希望を信じて歩んできた。そんな自分の強さを信じ8月1日、初の夢舞台に挑む。(渡辺陽太郎)

2015年の東京都選手権女子決勝で、同門対決となり、新井千鶴と対戦した高山莉加(右)=東京都足立区の東京武道館で

◆「努力すればできる」五輪が視野に入っていた

 好調時には「手がつけられない」と対戦相手が音を上げるほどの寝技が武器。中学までは「誰よりも下手だった」(高山)が、鹿児島南高で徹底的に教え込まれた。3年時には全国高校総合体育大会をオール一本勝ちで制した。2021年東京五輪女子70キロ級金メダルの新井千鶴ら、多くのメダリストを輩出した強豪、三井住友海上から声がかかるまでに成長した。  新井や08年北京五輪女子70キロ級金メダルの上野雅恵(現・監督)らをお手本に、苦手だった立ち技にも磨きをかけた。15年には国際大会で初優勝し、翌年にはグランドスラム(GS)東京大会で3位に入る。高山は視界に世界選手権や五輪を捉え始めた。所属先の五輪経験者と接する中で「元から強いと思っていたけど、すごく努力していた。私だって同じ人間。何もしなければ終わるけど、努力すればできるんだ」と信じた。

◆後輩に先越され引退覚悟、それでも再起

 だが五輪代表に選出されるためには必要と考えていた世界選手権の代表に選ばれない。その間に所属先の後輩が五輪でメダルを獲得した。「祝福したかった。でも悔しさが勝った」。徐々に「五輪は無理。柔道をやめよう」と気持ちが落ちていった。所属先の監督やコーチ、同僚、故郷の人たちに励まされ、踏ん張れた。  体と技を磨き続け、22年のGS東京大会は高校の先輩で東京五輪女王の浜田尚里(自衛隊)を破り優勝。翌年5月の世界選手権代表に大きく前進し、「私にも(五輪)チャンスが来た」と喜んだ。だが、代表に選ばれたのは浜田だった。「五輪には縁がない…」と落ち込んだ。今度こそ柔道をやめようと思った。

◆「ああ、なんていい日だ」涙でつかんだ五輪代表

GSタシケント大会を制し笑顔を見せる柔道女子78キロ級の高山莉加=3月

 しかし、高山の努力を見てきた周囲の人たちが諦めなかった。所属先の上野監督から「世界選手権に出なくてもいい。不可能を可能にすることはできる」「諦めなければ道はひらく」と励まされ、この二つの言葉を信じた。  3カ月後のGSタシケント大会をオール一本勝ちで優勝し、6月のGSウランバートル大会は3位。代表争いに踏みとどまった。そして12月、GS東京大会で浜田と16年リオデジャネイロ五輪代表の梅木真美を上回る3位となった。世界選手権を経験せずに、パリ五輪代表に内定した。不可能を可能にし、「ああ、なんていい日だ」と涙した。  喜びに浸ったのは一瞬だけ。翌日の代表内定会見では「金メダルを取るのが私の使命。絶対に持ち帰る」と燃えていた。今年3月のGSタシケント大会と4月のアジア選手権を優勝。パリに向かって最高の流れをつくった。

◆試合日から逆算して1日単位の調整

試合を1カ月後に控えた7月1日、同僚で57キロ代表の舟久保遥香とパリでの健闘を誓う高山莉加(左)

 本番では最高のパフォーマンスを発揮しなけらばならない。過去の経験から高山は自分自身が週末に好調だと知っている。試合が行われる8月1日は木曜日。好調のサイクルを合わせようと、1日単位で練習内容をずらし、木曜日を週末に見立てる。「地に足をつけて戦う」と金メダルへの準備は万端だ。  畳に上がる前にはいつも「私が一番強いんだ」と自らを鼓舞する。何度も味わった絶望を乗り越えた高山はそれだけで強い。花の都で心身ともに世界一だと証明する。 

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