楠康成さん(左)と練習に励むグエム・アブラハム選手=東京都世田谷区で2024年7月17日、久保玲撮影

 間もなくパリで開幕するオリンピック。前回の東京大会で南スーダンの陸上選手団が前橋市で長期事前合宿をしたことを覚えている人はいるだろうか。その選手団の一人が東京五輪後に再来日。日本でトレーニングを積み、パリで再び五輪の舞台に立つ。そこには一人の日本選手との出会いがあった。

 男子800メートルに出場予定のグエム・アブラハム選手(25)。身長190センチで長い手足を生かした大きなストライド(歩幅)が持ち味だ。日本を初めて訪れたのは2019年11月。長年続いた内戦を経て11年にスーダンから分離独立した南スーダンでは独立後も内戦が続き、練習環境も十分でないため前橋市が選手4人、コーチ1人を受け入れた。新型コロナウイルスの影響で東京五輪が延期後も市は受け入れを継続。事前合宿は1年8カ月に及んだ。

来日後初の練習を前にランニングシューズを履くグエム・アブラハム選手(左から2人目)ら選手団のメンバー=前橋市で2019年11月18日、久保玲撮影

 「ただ走るのではなく、平和のために走りたい」。そう意気込むアブラハム選手には原点がある。南スーダンで開催された全国規模のスポーツ大会で対立関係にある民族の選手たちが健闘をたたえ合い、声援を送る姿を目の当たりにした。「これこそが結束だ」とスポーツの力を実感。「だからこそ五輪で活躍することで注目を集めて、平和へのメッセージを伝えたいのです」

 その思いに共感したのが現役の陸上選手でもある楠康成さん(30)だった。初めて出会ったのは21年3月。前橋で練習を続けるアブラハム選手の元を訪れた。当時はコロナ禍にあって、五輪開催の意義が問われていた。楠さんも答えを出せずにいた。「高みを目指すことが全てではない。アブラハムの言葉でスポーツの意味に気づかされました」。一緒に練習をすると当初は使命感にあふれた近寄りがたい存在かと思ったが、純粋に「速くなりたい」と努力する自身と変わらないアスリートでもあった。

 アブラハム選手にとっても出会いは転機だった。選手団の中で中距離選手は1人だけで練習に限界を感じていた。同じ中距離の楠さんと練習することでモチベーションの保ち方や、ウオーミングアップの方法などを学んだ。翌月出場した大会では楠さんがペースメーカーとしてサポート。1500メートルで当時の南スーダン新記録を達成した。

 迎えた東京五輪。開会式で旗手も務めたアブラハム選手は、1500メートル予選に出場。1組13着で予選通過はならなかったが、3分40秒86をマークして南スーダン記録をさらに更新した。レース後「これは終わりではなく始まり。パリ五輪を目指して記録を更新したい。南スーダンが世界の一部になっていると伝えたい」と話し、8月末帰国した。

東京オリンピックの陸上男子1500メートル予選で力走するグエム・アブラハム選手=国立競技場で2021年8月3日、久保玲撮影

 連絡を取り続けていた楠さんは、練習環境や資金面も厳しい中でトレーニングを続けられるか心配だった。自身が所属するプロチーム「阿見AC SHARKS」の運営会社の社長でもある楠さんは思いを伝えた。「日本に来ないか。夢を追う手伝いがしたい」。22年5月、アブラハム選手はチームに加入。「厳しい生活だったので連絡を受けた時は本当に興奮しました」と振り返る。

 チームに加入して2年あまり。今年5月には東京五輪を4秒以上上回る記録をマークするなど着実に力を伸ばしている。一方で祖国への支援にも力を入れる。23年9月には南スーダンで陸上教室を開催。日本から寄付されたシューズも子供たちに届けた。自身の収入からアスリートたちへ支援も続けている。日本でのさまざまな出会いの中で改めて「出生や肌の色が違っても理解し合い、平和に共存できることがわかりました」。

 楠さんは「一本一本のレースが平和につながっている」と思いを新たにしている。「走って世界が平和になることなんて日本で陸上をやっていたら感じることができない。走ることで歴史を作っていく経験をアブラハムを通してさせてもらっている」

 一方で世界では争いが絶えない。東京五輪からパリ五輪までの3年間でロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ地区への侵攻が起きた。スーダンでは新たに内戦が起こり、南スーダンにも大勢の人たちが避難している。「スポーツは平和に貢献できますか」。そう尋ねるとアブラハム選手は力強く答えた。「はい、私はそれを信じています」。出場予定の800メートル予選は8月7日スタートする。【久保玲】

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