野球の聖地として数々の名場面の舞台となってきた甲子園球場は、8月に開場100周年を迎える。PL学園高(大阪)のエースとして5季連続で甲子園大会に出場し夏に2度優勝、プロ野球でも活躍した巨人の桑田真澄2軍監督(56)は、節目を前に「甲子園は自分を磨いてくれる砥石(といし)だった」と思い出を語った。(渡辺陽太郎)

◆池田を「何とか9点に抑えよう」

甲子園球場への思いを語る巨人の桑田真澄2軍監督

 芝生と土、ソースのにおいが混ざった独特の香りが漂う。「雄大」と表現するほど巨大な球場に圧倒された。桑田さんは今でも、初めて甲子園に足を踏み入れた1983年、15歳の夏を鮮明に覚えている。入場行進を待っていた時、球場整備を担う阪神園芸の男性に「おまえがPLの1年坊主か。甲子園は風を見て投げろよ」と言われた。行進すると浜風を感じ、中堅の旗を見ながら投げた。「球場の特徴を教えてくれた、おっちゃんのインパクトがあまりに強い夏でしたね」と笑う。  桑田さんの名を一躍全国に広めたのが、前年王者で強打を誇った池田(徳島)との準決勝。先輩に「10点以内に抑えろ。大阪の恥をさらすな」と言われ、「何とか9点に抑えよう。1回1点まで大丈夫」と向かっていく気持ちで挑むと、7ー0の完封勝利。桑田さんも本塁打を放った。

◆KKコンビだけではだめだった

PL学園時代の桑田真澄さん(左)と清原和博さん=1985年撮影

 「絶対無理だと思ったが、こんなことも起こる。諦めてはいけない。プロでも諦めず戦えたのは、この試合の教訓があったからかも」と思いをはせる。この試合に限らず、甲子園のマウンドや打席では常に緊張や重圧、孤独感、恐怖心が湧いた。「逃げずに立ち向かったからこそ、今の僕がある」。すべての試合が自分を成長させてくれた。  清原和博さんとの「KKコンビ」で沸かせ、歴史に残る活躍をしたが「僕ら2人だけでは無理だった。周りの仲間に恵まれた」と目を細める。甲子園に出たから偉いとは思わない。仲間と目標に向かい努力や挑戦をすることが大事。悩んだ時、苦しい時には高校球児の経験を思い出して頑張れる。甲子園を目指して戦う球児たちには「負けたら終わりの究極の状況。団結力が勝利への近道だ。最も大事なのは最後まで諦めないこと」とエールを送る。

◆神様からメッセージが来ないかな

選手とキャッチボールをする巨人の桑田真澄2軍監督

 プロ入り後に甲子園で「野球の神様」の存在を感じたことがあるという。「ここはカーブで勝負」「思い切って内角を突け」といった声を聞いた。「迷ったら、神様からメッセージ来ないかなってよく待っていたんですよ。それでピンチを脱したこともあった」。東京ドームなど他の球場では感じられなかった。「そういう体験が多くあるのは、全国の高校球児が目指した球場だからかもしれないですね」  プロ通算100勝目は甲子園で達成。野球人生を通じて甲子園は自分を磨き、神様の存在も感じる特別な場所だった。そして、これからも多くのドラマが生まれ、新たなスターが誕生するに違いない。桑田さんは「甲子園は先人が大切に育ててくれた日本の文化。次の100年につなげていってほしい」と願った。

 阪神甲子園球場 兵庫県西宮市甲子園町にある野球場。プロ野球阪神タイガースの本拠地で、親会社の阪神電気鉄道が所有、管理する。同社の沿線開発や、近隣で開催されていた全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校選手権大会)の観客増を受け、1924(大正13)年8月1日に「甲子園大運動場」として開場。名称は同年が十干(じっかん)十二支の甲子(きのえね)年だったことに由来。同年に第10回中等学校優勝大会が行われ、1925年からは春の選抜中等学校野球大会(現在の選抜大会)も開催。1935年に大阪野球俱楽部(阪神タイガースの前身)が誕生。2021年から全国高校女子硬式野球選手権大会の決勝の会場になっている。



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