元日の能登半島地震から半年以上が過ぎました。被災地の高校球児は地震後の生活に、野球にどう向き合っているのか。夏を前にした6月下旬、被害が大きい石川県珠洲市の飯田の球児たちに会いました。
金沢市内から能登半島先端の珠洲までは車で3時間以上。道路は復旧しつつあるとはいえ、陥没や隆起などで片側しか通れない道もまだ多い。運転する人も気が抜けないはずです。倒壊したままの建物もまだ多く残ります。
学校は市の中心部から車で5分ほどの高台にあります。地震直後は避難所になっていましたが、学校に続く道は車が通れず、物資は人力やヘリコプターで運んだそうです。
学校が再開された今も、校内には地震の傷痕が多くあります。グラウンドには大きな割れ目が残り、校内の一部にしか水が通っていません。
地震当時、山田恵大主将(3年)は、市内の自宅にいました。立っていられないほどの揺れで、家族に促されてやっとのことで家の外に出たそうです。
最初は自分の周りのことしか考えられませんでした。部員ら全員の無事を知り、「みんな生きてて良かったと、やっと安心できた」と振り返ります。
町並みが大きく変わり、停電や断水が長引く中、野球部員は避難所となった学校で支援物資を運び、近くの銭湯で受け付けや掃除をするなど、様々なボランティアに励みました。昨年4月に赴任した顧問の水上理雅教諭(24)は「自分たちの生活がままならない中、野球で培った精神力で周囲を助けるなど、人間的に大きくなった」と話します。
2月にようやく部活ができるようになりましたが、山田主将は「自分たちだけが好きなことやっとっていいのか、と躊躇(ちゅうちょ)があった」。僕もプロ1年目の2011年、東日本大震災の時に同じ気持ちになったことを思い出しました。ただ、実際に被災した彼らの思いは、想像もつきません。
金沢に2次避難した部員もいて、なかなか全員が顔を合わせることもできません。もう野球はできないんじゃないかという不安から、やっていいのかという葛藤へ……。水上教諭は「震災を経て感じたこと、野球ができることの幸せ、などをみんなで話し合い、少しずつ折り合いをつけていった」と話します。
そして、選手たちが前向きになるきっかけをくれたのが、22年夏に東北勢初の全国制覇を果たした仙台育英からの招待試合でした。東日本大震災の当時、仙台市内の中学で指導者をしていた須江航監督(41)が石川に招待され、練習の場を提供されました。その恩返しに、飯田と輪島の被災地2校の球児を招いてくれたのです。
全国トップレベルからの招待に、驚きと不安がありましたが、選手たちは「本当に楽しかった」と声をそろえます。一緒に練習や試合に臨む一方、監督宅に泊まって久しぶりに温かい家庭料理を味わうなど、忘れられない思い出になりました。
山田主将は「須江監督から石川と宮城でも『ワンチームだぞ』って言ってもらって、同じ野球をやっている身として本当にうれしかった」。
山岸大祐選手(3年)は当時はマネジャーでしたが、須江監督に選手に戻りたいと相談。「野球は楽しい。自分次第だよ」と言われ、選手に戻りました。「あの一言があったから、自分は頑張れている」と話します。梶遥登、柳谷瑠唯、米沢里玖の各選手(いずれも3年)も「日本は災害が多いので、今回受けた恩を、いつか返したい」と話してくれました。
「いろんな支援を受け、多くの人から支えられていることを実感し、野球に取り組む姿勢がガラリと変わった」と水上教諭は話します。
選手たちからは、困難な状況になったからこそ、野球ができる喜びや周囲へ感謝の気持ちを改めて感じることができたという話が聞けました。
それは山田主将の言葉に集約されています。「自分一人で成り立つ人生じゃなく、人とのつながりが大切だと改めて感じた」
今夏、飯田は困難を乗り越えて3回戦まで勝ち上がりました。支えてもらったことへの感謝の気持ちを力に変え、その活躍が周囲の力になる。被災地で、野球の力を改めて強く感じました。
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