高校野球の育成や発展に尽くした今年度の「育成功労賞」に、静岡県内からは駿河総合の望月俊治監督(58)が選ばれた。先輩指導者に学び、3人のプロ選手を育てた望月さんは、これからも選手一人ひとりに向き合い、成長を手助けする。

 練習では、チームに応じた接し方や選手個々の能力を伸ばす練習を柔軟に考え、声をかける望月さん。「型にはめちゃうのは簡単かもしれないけど、個は伸びていかない。10人いれば10人、30人いれば30人、考え方、性格も、体つきも違うから」。グラウンドの選手の動きをじっと見つめる視線は厳しく温かい。

 「選手がめざしたいところからそれそうになった時、修正してやるのが僕らの仕事かな」。約20年前、野球部の副部長を務めた島田商で今の指導法に通じる出会いがあった。1998年春に同校を57年ぶりの甲子園に導いた芝田耕吉監督(当時)がその人で、選手の力を引き出し、チームを強くしていた。

 「すげえ面白い。僕が今まで出会った野球と違った野球をやってた」と望月さん。「めざす野球はこうあるべき」ではなく、「いろいろなやり方があるな。『絶対』じゃなくていいんだ」と感じたという。同校監督を継ぎ、仁藤拓馬投手(元オリックス)が巣立っていった。

 ソフトバンクで中継ぎとして活躍する杉山一樹投手は駿河総合入学後に野手から転向。投法の課題を克服するまで「ネットスロー」の練習を地道に続け、才能が開花した。卒業後は三菱重工広島でプレーを続け、18年のドラフト会議で2位指名を受けた。

 オリックスで大型遊撃手として活躍する紅林弘太郎選手は1年時からバットコントロールが器用で、「小さい野球」をやってほしくないと思い、「こまいことやってもしょうがないだろう。しっかりと最後まで振り抜け」とアドバイスしたという。杉山投手の投球を間近に見た高校時代の紅林選手は「このボールを打たなかったら、プロで通用しないんですね」と口にしていたという。

 望月さんにとって、野球は幼い頃から身近だった。父教治さんは指導者として静岡商や興誠(現浜松学院)を甲子園に導き、ヤマハ発動機、専修大でも監督を任されるなど、アマ球界では経験も実績も格上の先輩野球人。母校静岡商から父が監督をしていた専大に進み、プレーを続けた。高校の卒業文集で将来の夢に「高校野球の監督」と書いたのは「親父の影響かな」と苦笑する。

 選手たちには「上を目指してできるだけ長く、競技者として野球をやってもらいたい」と話す。今は野球の理論や情報があふれている。「どれが正解というのはないと思う。取捨選択するのは子どもたちで、監督のアドバイスはその一つ。僕ら監督も進化しなきゃいけない」(斉藤智子)

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