高校球児たちの熱い戦いが、連日繰り広げられている。かつて西東京の強豪校から甲子園を目指した俳優の宇梶剛士さんに、野球への思いや高校生に伝えたいメッセージを聞いた。
――なぜ野球を始めたのですか。
小学1年生のとき、よく一緒にプロ野球を見に行っていた父にグラブを買ってもらい、始めました。球場の歓声に圧倒され、自分も選手になってここでプレーしてみたいと思いました。
小中学生のころは東京・国立のリトルリーグやシニアリーグでプレーし、中学2年生からは軟式野球部にも入りました。
中学時代は、遅くまで仲間と野球のことを語り合いました。1976年夏に地元、西東京の桜美林が優勝したときは盛り上がったな。真剣勝負をする高校生たちは大人っぽくて、憧れました。
――西東京の強豪校から甲子園出場を目指しました。
中学校の卒業式の翌日から、高校の合宿でした。まわりはシニアリーグの強豪チームから来た実力者ぞろい。甲子園に行けると思いました。1年秋の大会で、投手として神宮球場のマウンドに立ちました。漫画「男どアホウ甲子園」が大好きで、どんな時も直球勝負の主人公のように全部直球で勝負し、勝ち投手になりました。
――順風満帆に見えます。
いえ、このときの一勝が、自分の高校時代唯一の公式記録になりました。チームは上下関係などが厳しく、部員はみるみるうちに辞めていきました。自分はプロのスカウトに声をかけられていたので、辞めればプロに行けなくなる、と耐える日々でしたが、理不尽な環境に抗議すると、自分だけ練習に参加させてもらえない日が続きました。「1日休めば3日練習した分の技術や体力が落ちる」と思っていたので、2カ月近くが経ち、「もう俺野球ダメなんだな」と思うようになりました。
――野球への情熱は失われてしまったのですか。
ずっと野球に燃えていました。その野球が自分から抜け落ちて空いた穴に、怒りや憎しみが湧いてきた。校外で暴力事件を起こして部活も高校も辞め、暴走族に入りました。ただ、府中球場であった同級生の最後の夏の試合は、特攻服姿で見に行きました。「野球なんかもうやんねえ」と思っていましたが、仲間の姿は見届けたかった。でも、「自分がいれば勝てたのに」とか、色々考えてしまい、握った拳に力が入りました。
――その後は、野球を見るのも嫌だったそうですね。
惨めな思いがするから、野球は意識的に見ていませんでした。野球とは関わってはいけないとも思っていた。でも、20代後半にリトルリーグ時代の後輩の店で知り合った当時プロ野球選手の森山良二さんと仲良くなり、プロの試合をみるようになった。縁あって、だんだんと野球に戻されていったんです。
2007年に、岩手の社会人クラブチームの総監督になりました。心の奥には、やっぱり「野球が好きだ」という思いがあったのでしょう。このとき、「野球と関わらないって言うの、もうやめろ」と背中を押してくれたのは高校時代の野球部の仲間たちでした。都市対抗の県予選準々決勝で1イニング投げ、三振をとりました。
――甲子園も訪れたそうですね。
11年夏のことです。憧れの甲子園に初めて足を踏み入れました。日大三(西東京)と光星学院(現・八戸学院光星、青森)の決勝でした。球場に入った瞬間、試合も始まっていないのに涙が止まらなくなりました。スタンドではあるけれど、自分の中で一番輝いていた場所に立った思いと、秘めていたドロドロとした悔しさで感情を抑えられませんでした。
――野球に打ち込む高校生たちにメッセージをお願いします。
自分が野球を続けていても、夢がかなったかは分からない。でも、その道が途中で絶たれたから、悔しくて怒ったり、わめいたりした。
時は戻らないんです。だから、いま野球に向き合う高校生たちには、思いっきり走って、思いっきり投げて、思いっきり打って欲しい。加減せず、自分の持てる力は全部使ってほしい。それが、将来の自分の力になっていくと思います。(聞き手・西田有里)
うかじ・たかし 1962年生まれ、東京都出身。少年院にいたころ、母が差し入れてくれたチャップリンの自伝がきっかけで、俳優を志す。83年「青森県のせむし男」で舞台デビュー。著書に「不良品」「転んだら、どう起きる?」
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