選手としては甲子園に出場できなかった。監督としても縁がない。それでも甲子園で10年間、裏方として試合運営に携わった。高校野球の育成と発展に尽くした指導者を日本高校野球連盟と朝日新聞社が表彰する「育成功労賞」に選ばれた長野市の小林善一さん(70)が口にするのは「野球への恩返し」だ。

 上田高校では内野手として活躍した。3年夏に初戦で敗退後も部活に参加する。「後輩に野球を教えていたとき、将来やりたいことが定まった」と監督を志した。

 家が貧しく、卒業後は上京して銀行員として働いた。しかし夢を捨てきれず、高校卒業から2年後、日本体育大へ進み、保健体育の教員免許をとった。

 伊那北、坂城、長野吉田の3校で計25年間監督を務めた。甲子園をめざすが、夏の長野大会の最高成績は8強どまり。充実した日々だったが、「選手によい思い出を残せなかったかもしれない」という心残りを抱えていた。

 2012年度から2年間の上田染谷丘の校長時代には県高野連会長を務めた。14年夏からは10年にわたり、日本高野連で甲子園大会の「本部委員」として運営に参画した。

 還暦を過ぎて、甲子園で裏方として汗を流したのは「選手たちによい環境をつくるサポートをしたかった」という一念だった。

 教員だった妻の範子さん(65)からは「やりたいことをやりなさい」と後押しされた。「落ち込んでいるときに届く教員目線のアドバイスは忘れられません」

 春夏の甲子園では、毎朝5時半に球場へ行って夜10時に帰る生活を続けた。気にかけたのは、初出場や久しぶりに出場するチーム。大会運営の素早い流れにけおされがちで、なかなか勝てない。長野の代表も苦戦が続いた。

 そこで、「出場校の選手が公平に力を出し切ってほしい」と考え、選手が心の準備をするのに役立つスライド作りに取り組んだ。

 球場出入り口の詳細や室内練習場の使い方のほか、「球場入りは試合開始の2時間前まで」「前の試合の終了までにスパイクに履き替えること」など、選手の立場に立ったアドバイスを写真付きでまとめた。引退する昨年夏に完成させ、出場する全校に配った。「最高の舞台に立つ選手たちに力を発揮してほしかった。経験を次に伝える、という役割を少しは担えたかな」

 いまは県野球協会の専務理事として、野球人口の拡大に努めている。少しでも多くの子どもたちに野球に親しんでもらうことが目標だ。「次世代のために、野球にはライフワークとして関わり続けたい」(高億翔)

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