高校野球の発展と育成に尽くした指導者を日本高校野球連盟と朝日新聞社が表彰する今年度の「育成功労賞」に、熊本市立千原台高校の野球部監督、西田尚巳さん(59)が選ばれた。日本史教諭の傍ら、33年余にわたり高校野球の指導を続け、同市立必由館高校で甲子園出場を果たしたほか、プロ野球ソフトバンクホークスの抑えのエースだった馬原孝浩さんら多くの好投手を育ててきた。
始まりは部員3人の野球部からだった。1991年、高校教諭となり天草東高校(現在は上天草高校)に赴任した。野球部員はわずかで、新入生を勧誘してようやくチームの体を成したものの練習を休む部員も多く、家庭訪問したこともあった、と振り返る。
3年を経たころ、必由館高の前身、熊本市立高に創設された硬式野球部の監督に、と声が掛かった。母校の済々黌高の野球部監督だった末次義久さんが推挙してくれたのだという。当初は練習する場所もなく、自家用のワゴン車に用具を載せてほうぼうのグラウンドを借りてまわった。
97年、転機が訪れた。馬原さんが入部してきた。中学生のときは小柄で注目を集める選手ではなかったというが、西田さんは「ビューンと伸びる」球筋に魅力を感じた。
その頃には専用グラウンドも確保された。思う存分に練習できる環境の中、徹底した走り込みなどで鍛えると、馬原さんは県内屈指の本格派右腕に成長。99年夏の熊本大会でチームは8強に入り、有望な選手が集まるようになった。2001年夏には4強に、そして03年夏には甲子園行きの切符をつかんだ。
その年は力のある選手がそろいながら、公式戦で勝てずにいた。「最後の夏」を目前に部員たちは個人ノック500本、素振り千回以上といった厳しい日課を自らに課し、実行して悲願達成に結び付けた。
西田さんには、そのときの感動にも勝る思い出がある。ある年の夏の大会、2回戦で優勝候補とあたった。「勝つのは無理だろう」と思ったが1点差で打ち負かした。ふとスタンドを見上げると、太鼓をたたき懸命に応援していた3年生部員が号泣していた。
「試合に出ることも、ベンチに入ることもかなわなかった。でも彼は自分や仲間の思い、努力を信じて太鼓をたたき続けた」。そう感じると、西田さんのほおにも涙が伝った。
「たかが野球かも知れない。でも本気になって取り組めば、大切なものがみつかる」。そのことを伝えたくて、公立高でプロ投手4人を育てた名伯楽は今夏もグラウンドに立ち続ける。(吉田啓)
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