17日、老衰のため亡くなった元福井県知事の栗田幸雄氏。4期16年にわたり県政のかじ取り役を務めた栗田さんの県知事としての歩みを振り返ります。
 
栗田さんが福井県知事に就任したのは1987年。以後、4期16年務め、県政の発展に努めてきました。
 
栗田さんが就任後、最初に手掛けたのが福井県立大学の開校です。前任の中川平太夫(なかがわへいだゆう)知事時代には嶺南で大学の誘致の話が進められていましたが、今後の県の高等教育のあり方を重視し、嶺南にもキャンパスを持つ福井県立大学の設置を答申。1992年の開学以降、多くの人材を排出しています。
 
任期中には様々な課題にも直面しました。福井県政とは切っても切れない「原子力行政」においては、1995年には「夢の原子炉」といわれた高速増殖炉もんじゅでナトリウム漏れ事故が発生。事故の深刻さはもとより、その後、運営元による数々の情報隠ぺいの不祥事に、普段は温厚な栗田さんも声を荒らげました。一連の事態をきっかけに、栗田さんは国に「今後の原子力政策の進め方についての提言」を提出。国策である原子力政策に国民の声を反映させる道筋をつけました。
 
また、県政のトップとして苦渋の決断を下したこともありました。1985年に発表された福井空港の拡張計画。滑走路を延長しジェット便の離着陸を可能にしようとする計画に、地元住民や地権者の意見は二分しました。住民合意のため自らが交渉の先頭に立つこともありましたが、交渉は難航。国から事実上の中止勧告を受けたこともあり2001年9月、「計画を凍結する」と発表しました。
 
北陸新幹線の整備に向けては国に対し、県内着工を粘り強く交渉しました。嶺北と嶺南を一体化するという理念のもと「若狭ルート」にこだわった陳情活動の結果が、知事退任後の「小浜・京都ルート」の決定に結びついたといえます。
 
このほか、県立音楽堂の建設や県立図書館の移転のほか、いまや県内ナンバーワンの集客力を持つ県立恐竜博物館も、栗田県政時代に整備されるなど、現在の福井の礎を築きました。
 
栗田幸雄氏の通夜は22日、葬儀は23日に福井市のアスピカホール文京で行われる予定です。
  
知事として福井の発展に手腕を振るった一方で、退任後は戦争を経験した世代として積極的に平和の大切さを訴えていました。福井テレビでは2023年“戦争経験者の証言”として栗田さんにインタビューをしました。「戦争はまさに愚劣」と語気を強め、戦争を知らない世代に対して「戦争体験を伝えることが私の義務」と語ったインタビューの全編は、福井テレビ公式YouTubeチャンネルから見ることができます。

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