グローバル化と国際化、アメリカをはじめ先進国で台頭しつつある国民保守主義について論じた座談会の前編をお届けします(写真:metamorworks/PIXTA)この記事の画像を見る(5枚)本来であれば格差問題の解決に取り組むべきリベラルが、なぜ「新自由主義」を利するような「脱成長」論の罠にはまるのか。自由主義の旗手アメリカは、覇権の衰えとともにどこに向かうのか。グローバリズムとナショナリズムのあるべきバランスはどのようなものか。「令和の新教養」シリーズなどを大幅加筆し、2020年代の重要テーマを論じた『新自由主義と脱成長をもうやめる』が、このほど上梓された。同書の筆者でもある中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)の各氏が、グローバル化と国際化、アメリカをはじめ先進国で台頭しつつある国民保守主義について論じた座談会の前編をお届けする。

国民保守主義の台頭

中野:今年の2月に『The Economist』誌にて、「国民保守主義の危険性」という記事が掲載されていました。

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グローバリズムによって国民の生活が貧しくなっている現実を受け、トランプ的な自由主義を否定する国民保守主義の台頭に対して、リベラル側はグローバリストとしてではなく愛国心に立脚したうえで自由主義を肯定し、国民保守主義に対抗すべきだという内容でした。

この主張について、まずは施さんに、3月6日の産経新聞でお書きになられていた「国民生活第一路線を捨てた当然の帰結としての『失われた30年』」という論考に基づいて、ご意見を伺えますでしょうか。

:わかりました。まずは産経新聞の記事について簡単に述べさせていただきます。こちらの論考はもともと「失われた30年検証研究会」という会合で講演した内容に基づいています。結論としては、「失われた30年」とは、日本政府が自ら望んだものではないかという話です。というのも、失われた30年の主要因は、新自由主義に基づくグローバル化の推進を経済政策の基本理念とし、つまり、グローバルな投資家や企業がビジネスしやすい環境の整備を経済政策の第一の目的としてしまい、一般国民の福利の向上や生活の安定をないがしろにしてきたことだと思うんですね。

90年代半ば頃から徐々に、グローバルな投資家や企業の声が非常に大きくなってしまいました。各国の経済政策を、各国の国民の福利の向上、生活の安定のためではなく、グローバルな投資家や企業関係者がいわゆる稼ぎやすい、ビジネスしやすい環境をつくるために都合のいいように変えていくという方向になったのではないかと。

:日本は、ある意味、新自由主義に基づくグローバル化という目標を生真面目に受け止め、追求してきました。グローバル化を目指す構造改革を一生懸命やった結果、庶民層が貧しくなり、分厚い中間層と言われたものも没落し、結果的にGDPも伸びなくなったのではないかと思うんです。

資本の国際的移動に対する一定の規制を

:日本のグローバル化路線は1996~1997年の金融制度改革あたりから本格的に始まりました。国境を越える資本の移動を、次第に自由化し、活発化させていきます。そうすると必然的に、グローバルな投資家や企業といった、国境を越えて資本を動かせる人々の力がどうしても強くなってしまう。

施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

なぜかと言えば、たとえば「法人税を引き下げないと、もうあんたの国には投資しないよ」とか、「人件費を下げられるように非正規労働者を増やさないと、生産拠点をこの国から移すぞ」と政府に圧力をかけられるので、彼らの声を聞かざるをえなくなってしまうんですね。

加えて、グローバルな投資家や企業からすれば、労働組合は非常に面倒くさい抵抗勢力なので、資本が国境を越えて移動できるようになったことは好都合です。労働組合の力はほとんど失われるからです。たとえば労働組合が団体交渉をしようとしたら、企業側から「うるさいこと言うんだったら、外国人労働者や移民を使うよ」とか「事業を海外に移すよ」と言われるようになり、労働組合は事実上機能しなくなってしまった。

そして、少子化の問題に関しても、グローバル化の影響をもろに受けているのではないかと政府も最近は認識し始めています。結局、経済政策が国民生活を二の次にした結果、若い世代は経済的に安定せず、結婚や子どもを持つことを躊躇してしまう。特に日本は、社会通念上、若い男性にきちんとした稼ぎがないと、結婚して子どもを作ろうというふうにならない傾向にあります。だけど、財界団体なんかは、「少子化は避けられない運命だ」と宿命論的に言って、それを理由にますますグローバル化を進めようとする。

以上の問題に対する改善策としては、当然ながら、新自由主義に基づくグローバル化路線を改める必要があります。具体的には、資本の国際的移動に対する一定の規制を認めるような国際経済秩序をつくることです。グローバル化以前の、つまり1980年代以前の国際経済秩序のように、関税など、資本の国際的移動に対し各国が一定の規制を加えることは正当だと認識されうるような国際経済秩序です。ただ、これはもちろん一国だけでは無理で、国際協調のもとで国際経済秩序を根本から変えていく必要があります。

:それが一番の根本的な処方箋ですが、もう少し身近な第一歩としては、「グローバル化」と「国際化」という概念をしっかり区別することです。そもそも「グローバル化」は、国境の垣根を下げて、ルールや制度、慣習、文化などを共通化しようとする考え方であるのに対して、「国際化」は、国境や国籍を維持し、互いのルールや慣習などの違いを尊重しつつも、積極的に交流していく考え方で、根本的に異なります(以下の記事を参照。〈年頭にあたり「グローバル化」「国際化」区別を〉〈「グローバル化」と「国際化」の区別を〉)。

しかし、日本ではこの2つが一緒くたにされることが多い。たとえば菅政権の経済ブレーンだったデービッド・アトキンソン氏は、反グローバリズムの意見に対して、X上でこう答えたんですね。「反グローバリズムを言うなら、ビール、電気、洋食、洋間、自動車、テレビ、パソコン、地下鉄、電車、民主主義、ベッド、飛行機、西洋医学等々を使うな!すべてグローバリズムの結果。軽率な発言を控えなさい」と。

これは典型的な意見ではありますが、グローバル化批判をすると、「排外主義の鎖国主義だ、極右だ」みたいなことを言う人が多いんですね。なので、まずは「グローバル化」と「国際化」の概念を明確に区別することで、グローバル化批判がしにくい現状を変える必要があると思います。

「グローバル化」と「国際化」の違い

古川:「グローバル化」と「国際化」は全然違うということは、私も大学の授業でよく話しています。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

言葉の意味を考えてごらんなさい、と。「国際」というのは「国の交際」なのだから、まず国が前提になっている。それぞれに独立した国がまずあって、その国同士が交際して関係を築いていくのが「国際」。英語で言えばinter-nationalismで、やはりまずナショナリズムに基づく独立したネイションがあって、それが相互に関係するのがインター・ナショナリズムです。

それに対して、グローバリズムというのは、「世界は一つ」「地球は一つ」と考えるわけですから、インター・ナショナリズムが前提にしている国家やナショナリズムを否定します。

「ね? だから正反対でしょ?」と説明すると、誰だって理解しますよ。たぶん中学生でもわかることでしょう。それなのに、わが国の学者や政治家が両者を同一視しているのは、本当に不思議です。これはいったい、どうしてなんでしょうか?

:それでいうと、興味深いアンケート結果があります。結論から言うと、実は一般の方のほうが「グローバル化」と「国際化」の違いを認識していて、「国際化」のほうを好んでいるのではないかという結果です。

:2022年の4月に九州大学での授業の最初に、私の話を聞く前のまっさらな状態で、学生74人に聞いたんですね。1つ目はこんな設問でした。「外国や外国の人々との活発な交流が大切だと思いますか」と聞いたら、99%が「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えました。

2つ目の設問はこうでした。「あなたが望ましいと思う交流のあり方は、タイプ1とタイプ2のどちらのタイプに近いですか」。ここで「タイプ1」は、国境線の役割をなるべく低下させ、人やモノなどが活発に行き交う状態をつくり出し、さまざまな制度やルール、文化、慣習を共通化していくような交流。これは、アンケートには書きませんでしたが、「グローバル化」型の交流ですね。「タイプ2」が、国境線や国籍を維持したままで、また自国や他国の制度やルール、文化、慣習などさまざまな違いも前提としたうえで、互いによいところを学び合う交流。これも書きませんでしたが、「国際化」型の交流を意味します。その結果、「タイプ2」の「国際化」型を選んだ人が95%だったんですね。「タイプ1」はたったの5%でした。

この結果に私は気をよくして、2023年の12月に、学生の卒論の研究を指導しながら、私も自分の科研費を使って学生と一緒に調査をしました。一般社会人300人を対象に社会調査会社に委託して、なるべく日本人のデモグラフィックな縮図をつくり、いまお話ししたものと同じ質問をしてみました。すると、設問2の回答として、「タイプ1」の「グローバル化」型を望んだのは、学生よりも少し多くはありましたが16%で、「タイプ2」の「国際化」型を望んだのは84%でした。

中野:その意味するところは、大学を卒業するとグローバル化するってことですね(笑)。

高校までの日本の学校教育は「国際化」型

:おそらくそのとおりで、高校までの日本の学校教育は、「国際化」型でやっているところが多いんです。実際に教科書を調べてみたら、小中高では、だいたい「国際化」型の、違いを認め合いましょうという話で進められている。逆に大学は「グローバル化」型になっています。なので、九大ではまだ高校を出たての子たちに聞いたので、「国際化」型と「グローバル化」型を比べると95対5になったと言えるかもしれませんね。

ただですね、300人のほうの調査で見てみますと、統計的にはおそらく有意ではなさそうですが、日本は欧米で言われているのと違って、高学歴の人のほうが、どちらかといえば「国際化」型のほう選ぶ人が多い傾向があると言えるかもしれません。まだきちんと分析していないので結果の数字を眺めたうえでの推測にすぎませんが。

欧米では、デイヴィッド・グッドハートがエニウェア族、サムウェア族と分けて、エニウェア族、つまり大都市に住む高学歴、高収入の者のほうがグローバル化を望むと述べています。日本ではその傾向はみられそうもありません。ここは文化の違いかもしれません。

佐藤:庶民層がグローバリズム志向とは、グッドハートの主張をくつがえす結果ですね。

:ええ、そうかもしれません。だから、ここをいかに理解すべきかはもう少し考える必要があります。いくつか同じような質問をしたので、それも一部紹介させていただきますね。

日本の4人に3人は「国際化」型の政策を好んでいる

:これは冒頭で触れた今年3月6日の産経新聞の私のコラムでも取り上げたものですが、望ましい日本の経済政策をどう考えるかという質問です。選択肢は、①が「日本経済をグローバル市場の中に適切に位置づけ、投資家や企業に投資先として選ばれやすい日本を実現すること」。②が、「日本国民の生活の向上と安定化を第一に考え、国内に多様な産業が栄え、様々な職業の選択肢が国内で得られるようにすること」。①は日本がここ30年ぐらい追求してきた追求してきた「グローバル化」型の経済政策で、②が「国際化」型と言えると思うんですが、結果は、「国際化」型のほうを支持する人が多くて73.3%です。

あとは、ちょっとストレートに、「あなたが考える望ましい将来の理想的世界秩序とは、次のうちどちらに近いですか」という質問をしました。①がまさにジョン・レノンの「Imagine」のような世界で「グローバル化」型の「合理的で普遍的でグローバルな世界国家をつくり、全人類がそこにまとまって対等に暮らすように努める」というもの。②が「国際化」型で「多様な文化や伝統をそれぞれ担った様々な国々が存在し、国々が対等な共存共栄を図るように努める」というもの。これもやはり②を支持する人が77.3%でした。

ざっくり「地球市民的なエニウェア族」と「ナショナルなサムウェア族」の割合というのは、イギリスをはじめとする欧米諸国では、グッドハート曰く、25%がエニウェア族で、半分強がサムウェア族で、残りがエニウェア族とサムウェア族の中間派とのことです。今回の調査でも、グローバル派が日本国民の25%弱でしたので、近い結果にはなったと思います。

このように、日本の4人に3人は「国際化」型の政策を好んでいるにもかかわらず、1990年代後半以降の30年間で政府や財界が推し進めてきたのは、「グローバル化」型の経済政策なんですね。外国や外国人との交流を好ましいと思う、お人好しの日本人の心情に乗じて、多くの人が実は望まない改革を進めてきたっていうのが現状ではないかと。

だからこそ、グローバル化と国際化という概念を区別しないと、あまり望まれてない「グローバル化」型の政策がますます進められてしまいかねません。結局のところ、「私はグローバル化には反対だが、国際化には賛成だ」と言えるようになって初めて、今の新自由主義に基づくグローバル化推進路線の是非を巡る建設的議論が可能になるんじゃないかと思うんです。

:最後に『Economist』の記事に関してなんですが、「国民保守主義の危険性」を書いた、主流派の欧米のマスコミとしては、まさにあるあるの記事だと思いました。まあまあ頑張っていますね。庶民の生活が貧しくなって中間層が落ちぶれたことを認め、そこから出てくる嘆きには正当な評価をしようと述べていることなどは評価できます。

ただ、やはり踏み込みが甘い記事だと思いました。欧米の人でも、やっぱり自由民主主義をきちんと理解できていないんじゃないかなっていう感じがしています。

リベラルにこそ必要なナショナリズム

古川:踏み込みが甘いというのは私もまったく同感です。大事なことを言っているとは思いますが、一番大事なことをまだ言っていないと思いました。

一番大事なことというのは、これは私が以前から申し上げていることですが、新自由主義を批判するリベラル派、とくに社会民主主義的な立場に立つ人たちは、はっきり 自分がナショナリストであることを表明するべきだということです。

彼らは「国民の生活を守れ」とか「政治はもっと国民の声に耳を傾けよ」とかと言います。これは紛れもなく国民主義、すなわちナショナリズムです。なのに彼らは、ナショナリズムは排他的だ、愛国心は危険だと言って、自分の足場を自分で掘り崩すという自滅的なことをやっています。グローバルな新自由主義から庶民の生活を守るためには、主権国家を回復するしかないということは、彼らも本当はわかっているのだから、いい加減、はっきり「自分はナショナリストだ」「国民国家を守るんだ」って言いなさいよと、私は常々思っているんです。そうしない限り、リベラリズムは力を持たないし、支持もされないと思うんです。

だから、記事の最後のほうに、「リベラルは愛国心や祖国愛に対するためらいを克服しなければならない」と書かれているのは、まったくそのとおりで、よく言ってくれたと思います。しかし、踏み込みが甘いのはまさにそこで、いま「愛国心」と訳した箇所は、原文では「patriotism」なんですね。「祖国愛」も「love of the country」。つまり、nationalismではなくpatriotism、love of the nationではなくlove of the countryというように、ナショナリズムやネイションという言葉を意図的に避けているわけです。

実はこれは、従来のリベラルの常套的な語り口です。ここには、リベラルな理念や憲法に対する政治的な忠誠という意味でのパトリオティズムは大事だが、ナショナリズムは文化的な同質性を強制するから排他的で危険だとか、自然な感情としての祖国愛や郷土愛は大事だが、ネイションへの愛は人為的なイデオロギーであり虚構であるとかいった意味が込められています。

古川:しかし、そういう意味でのパトリオティズムや祖国愛が大事だというのは、当たり前の話で、それだけでは何を言ったことにもなりません。本当の問題は、そうやって彼らが敵視しているナショナリズムのほうこそが、実はリベラルな社会の前提条件であるということなんです。

佐藤:古川さんが指摘された箇所は、厳密に訳せば「リベラルは愛国心について恥ずかしく思うのを克服しなければならない。愛国心とは、祖国を大事に思う自然な感情である」。この後に「そして祖国とは、国民のまとまりがあってこそ維持されるものなのだ」と来るべきではないかということですね。

古川:そのとおりです。「愛国心に対するためらいを克服すべき」という、この言説こそが、実はリベラルのナショナリズムに対するためらいを如実に表現しているわけです。

まあ、とはいえ、わが国ではこういう意味での愛国心でさえ、いまだにタブー視されているのが現状ですから、まず話はそこからというのもわかります。そういう意味で、特に日本のリベラルにこそ読んでもらいたい評論だと思いますね。

中野:佐藤さんは、施さんのお話についてどうお考えになりましたか。

「怨み節の政治」を志向する国民保守主義

佐藤:趣旨には賛成ですが、気になる点もあります。まずは少子化。これは非婚化の結果であり、背後には経済的な停滞がある、現状は確かにそう見えます。

佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)、『新訳 フランス革命の省察』(PHP研究所)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。これまでに『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻、『佐藤健志の2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている(写真:佐藤健志) 

ところが『少子化社会対策白書』のデータを見ると、25歳から39歳の未婚率が急上昇を始めるのは、男性で1970年代後半、女性で1980年代前半から。ただし30代後半の女性のみ、1990年代前半からとなりますが、だとしてもグローバル化がどんどん進む前、日本が繁栄していた時期なんですよ。これをどう説明するのか。しかもデフレ不況が長期化するにつれて、未婚率の伸びは鈍くなり、横ばいに近くなってくる。

今の若者が経済的な不安のせいで結婚しないのは事実としても、少子化をグローバル化とどこまで結びつけていいかは考えものですね。この問題をめぐっては、拙著『平和主義は貧困への道』でも、「平和主義は少子化への道」と題して論じましたので、ぜひあわせてご覧ください。

次に『Economist』の記事。ここには国民保守主義の問題点に対する重要な指摘が見られます。つまりこの理念は、グローバリズムや新自由主義に対する被害者意識に基づいた「怨み節の政治」を志向するものだと書いてあるのです。

ところが人間、被害者意識にとらわれたら最後、自分が悪いとは絶対に思えなくなる。物事がうまくいかなくても「あいつのせいだ、こいつのせいだ」とヒステリーを起こすばかりで、おのれを省みたり、行動を改めたりはしないのです。つまりこれが正しければ、国民保守主義など自滅を運命づけられた独善にすぎない。

佐藤:おまけに『Economist』、国民保守主義は「政治的多元主義を嫌う」とも述べている。くだんの姿勢はほぼ確実に、国民の分断を引き起こしたあげく、権威主義の賛美に行き着きます。その危険性を説くかぎりにおいて、この記事は自由民主主義をきちんと理解している。自滅的な権威主義賛美を容認するようでは、反グローバリズムの行く末も知れたもの、そう言われても仕方ないでしょう。

グローバル化への移行を促す圧力

佐藤:ならばなぜ、国際化、ないし国際主義と、グローバリズムはかくも混同されるのか。抽象的な観念としてはともかく、現実には線引きが難しいことが第一に挙げられます。国境の垣根をどこまで保ったら国際主義で、どこまで下げたらグローバリズムなのか。しかも積極的な交流が望ましいのなら、垣根は低いほうがいいに決まっている。

「国際化が望ましいのなら、グローバル化はもっと望ましいはずだ」という形で、グローバル化への移行を促す圧力があるのです。もともと近代世界は「理性に基づく普遍性」を志向する性格が強い。そして「理にかなった変化なら、どんどん進めるに越したことはない」という加速主義の傾向まで持っています。

加えて問われるべきは、はたして国際主義で国際秩序を維持できるのか。実際、世界は20世紀前半に一度失敗しています。第1次大戦後に国際協調主義が提唱されたものの、国際連盟は第2次大戦を防げなかったのです。だからこそ、今度は国際連合だ、望むらくは世界政府だという話になった。グローバリズムなしには第3次大戦で人類が滅びかねない、20世紀後半の世界がこの危機感から出発したことを忘れるべきではありません。

普遍性の追求、加速主義の肯定、そして安定した国際秩序への志向。この3つがそろったら、グローバリズムが国際主義を圧倒して当然なんですよ。裏を返せば、グローバル化に歯止めをかけてナショナリズムの方向へと引き戻すには、「普遍性を追求しない自由」や「物事を加速させない自由」が必要になる。もっと言えば「偏狭になる自由」や「基盤を共有しない自由」。

その意味では「排外主義だ、偏狭だ」といったナショナリズム批判に反発するのをやめるところから始めるべきでしょう。福田恆存が「文化とは何か」で喝破したとおり、文化の根底にあるのは頑固なまでの自己保存の感情です。「もちろん、そうだ! 偏狭でないナショナリズムが存在しうると本当に思うか?!」。こうこなくてはなりません。ただしこれを言い過ぎると、国際主義まで否定する結果になりかねないのが困ったところですが。

中野:施さんや古川さんがおっしゃったグローバル化と国際化がごちゃ混ぜにされるのって、実は世界的に見られる現象なんですよね。施さんのアンケートからも、人々はこの違いを少なくとも暗黙のうちに理解しているようなのですが、政策としては反映されていない。

インテリは前近代からグローバル志向だった

中野:私の考えとしては、近代をどう捉えるか、っていうところと関係があるんじゃないかと思います。佐藤さんのおっしゃるように近代は普遍性を目指す動きだと理解されがちですが、実際にそうかというと、私は違うと思うんですよ。

中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)

前近代、例えば封建社会では、国境なんて意識されていなかった。その代わり、固定された階級があり、エリート層はラテン語を使い、キリスト教世界でグローバルに活動していました。インテリはグローバルだったわけです。近代化とともに庶民が権利を持ち始めると、ラテン語じゃなくてフランス語などの現地語、俗語で喋る必要が出てきて、国境が意識され始め、ナショナリズムや国境の概念が出てきました。つまり、個別化は近代の産物で、前近代ではあまり意識されていなかったわけです。

じゃあ、グローバリゼーションとは何か。インテリは今でも、エニウェア族、つまりどこでも生きられるグローバルな存在でいたい。これは前近代も同じ。ただ、庶民が民主的に参加し始めると国境の壁が生まれるんです。でもエリートだけだったら、学問の世界では特に、グローバルな交流は当たり前のことです。自分たちだけの世界では、楽しく、知的な刺激もあり、問題もない。そんな状況ですから、「Imagine」も歌いたくもなりますよね。

ですから、グローバリゼーションを推し進めたいのは、インテリ、つまり知識階級なのです。アンケートで見ると、一般の人々がそういう世界を必ずしも望んでいないことがわかります。でも、思想やジャーナリズムを紡ぎ出しているのはインテリです。その彼らの思想は、本質的に封建的、メリトクラシーという階級制を重んじる。だからグローバリゼーションが進むと封建的な世界になる、という言説は矛盾しているわけではなく、そもそもそのトップにいるインテリの考えが、封建的だったということなんじゃないですかね。

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